2014/12/05

天才スピヴェット (2013)

L'extravagant voyage du jeune et prodigieux T.S. Spivet (2013) ★★★★

全く予備知識なしで鑑賞。T.S.スピヴェット(Kyle Catlett)は、半永久的に稼働する磁気装置を発明する。権威のある賞を受賞し、電話越しに学会に招待されスピーチをすることに。誰も彼が6才であるということを知らない。

子供であることがばれてしまったら、受賞を取り消されるかもしれないと思ったスピヴェット少年は、誰にも言わずに一人でワシントンDCのスミソニアンに向かう。警察の捜索をかいくぐったり、ハイウェイでごっついトラックをヒッチハイクしたり、様々な困難を乗り越え学会会場に向かう。持ち前の頭脳を生かして論理的に分析を重ねていく一方、家族の写真を眺めては夜な夜な泣いてしまう幼い一面もあり。

カラフルで楽しげな映像は「グランド・ブダペスト・ホテル」と似ていると思った。ストーリー的には分かりやすいのだが、笑いどころに関しては独特のセンスで満載。旅の途中でスピヴェットが胸のあたりを強く打ち、大きく広がった青痣ができる。大人が彼を抱き上げられる度にスピヴェットが痛みで叫ぶ。あってもなくてもいいような場面だが面白かった。

がっつりとスピヴェット少年の物語で、アメリカ横断を通して彼が成長する、久しぶりのカミングオブエイジものを見たという感じ。天才役なだけでなく、実生活の彼も6か国語を話し、武道のセンスもよく、世界大会でも優秀な成績を収めている。「ものすごくうるさくてありえないほど近い」のトーマス・ホーンみたいに正真正銘の天才子役という感じ。

万人受けするようなハートフルなストーリーで、見ている最中幸せな気分だった。そこが良さだと思うが、一風変わった作品を撮ってきたジャン=ピエール・ジュネ監督だけに、もっと攻めた感じも求められたのかもしれない。


2014/11/30

6才のボクが、大人になるまで。 (2014)

Boyhood (2014) ★★★

当時6歳だったメイソン(Ellar Coltrane)を12年間かけて撮影している。姉のサマンサも一緒に年を重ねていく。一つ思ったのが、メイソンもサマンサも、始めはすごく可愛いが、13、4歳ぐらいの思春期になると、もっさりした長い髪、ニキビなども出てきて、不細工になる。もう少し成長すると、イケメン、美人になっていく。大人になるためにはいったん醜くならないとだめなのか。

正直期待していたほどの内容ではなかった。12年間かけたといっても、数年おきにそれぞれの役者が一緒に撮影に参加して、って感じで断片的。どこの家庭にもありそうなホームビデオを古い年順に観た感じ。実際に撮影は、学校に通わなければならないメイソンのこともあって、各年の夏休み期間だけに限定されていたらしい。確かに役者の顔の変化は明らかだが、長い撮影期間が話題になっている割には、思ってたよりすごくないとがっかりする感じ。同じように1人の少年の人生を描いた「ニュー・シネマ・パラダイス」では、過去と現在がつながっていく的な、ずっと変わらず一貫したものがあった気がする。

ただ、それと比較するのも変な話で、この映画の場合は撮影を始めた段階で、シナリオはしっかり立っておらず、撮影しながらストーリーを構築していったらしい。より自然な形でメイソンの成長を追おうというコンセプト。それが行き当たりばったりに思えてしまったのだった。

12年間かけただけあって、その当時話題になった出来事、アイテムがこれ見よがしに画面に映される。メイソンが子供のころには任天堂のゲームボーイ、思春期ごろにはiPod。さらに政治の分野では、ブッシュ批判からの、オバマ推しなど。そしてハリポタ、レディガガブーム。子供のころのメイソンがドラゴンボールのアニメ見ていたのがうれしかった。部屋に張ってあるポスターやベッドの布団カバーもドラゴンボール。

観終わった時にはなんとも言えないむなしさが残った。メイソンが成長し、大学に行くために家を出ていく。そのときの母親の言葉が切なかった。「結婚して離婚して、あなたを育てて、今あなたは家を出ていく。このあと私に残っているのは葬式だけ」と、いきなり泣き出して言うのだった。思い返してみれば、家族にとっては辛い時間の方が多かった。生きていく意味を考えさせられる。

デリカシーのない父親が年頃の娘に向かってコンドームの話をするくだりが面白かった。サマンサもメイソンも照れと呆れの混じった顔をしていた。


2014/10/18

Yohan - Barnevandrer (2010)

Yohan - Barnevandrer (2010) ★★★★

「オリバー・ツイスト」のように、貧しい中で健気に生きている少年の話。誰でも楽しめるファミリー映画で、期待を裏切られることなく、ある程度展開が予想できる(?)おじいちゃんが、自分の幼少期を話して聞かせる形で映画が始まる。以下は感想というよりは、話のあらすじ。

1980年代、ノルウェイの貧しい家庭に生まれたヨハン(Robin Pedersen Daniel)。金髪の男兄弟が五人ほどいた。一番の末っ子は、病気がちで咳がとまらない。冬になって雪が積もると、食料も底をついてきて、生活できなくなる。子供たちを農場へ出稼ぎに行かせるという誘いもあったが、父親は絶対に息子たちをそんなところへやりたくなかった。家族を置いて、自分だけで出稼ぎに行く。しかし、父親がいないときに、母親が死産をしてしまう。兄弟たちは、この不幸をヨハンのせいにする。ヨハンは、働かずに、ハーモニカを吹いたり、動物を追いかけたり、自分勝手なところがあったので、彼にあたったのだった。内緒でヨハンの名前を出稼ぎリストにサインする。

ヨハンは、同じように農場に引き取られる子供たちと列をなして、険しい山を下りる。その時友達になったのが、女の子のアナと幼い弟のオライだった。

ヨハンが働くことになった農場には、意地悪な兄弟がいた。汚い恰好をしているヨハンを見ると、馬鹿にしたように笑う。そして、仕事を少しさぼっているのを見つけると、お父さんに大げさに告げ口し、真に受けた父親は、ヨハンの手を鞭で打つのだった。

アナとは、たまに会うことができた。数少ない味方だった。しかし、アナはいつも元気がない。足や顔には痛々しい痣がある。アナの仕事先の農場は、ヨハンのところより意地悪な農場主がいた。そしてあるとき、アナの代わりに別の男の子がやってくる。アナはどうしたんだ?と聞くと、死んだよと言われる。

アナが死んでしまったと聞き、悪夢にうなされるヨハン。思わず、農場を飛び出して、アナのところへ向かう。するとアナは生きていた。死んだと聞かされていたのはデマだった。しかし病気を患っており、幼い弟と一緒に馬小屋のわらの上で寝たきりになっていた。何とか助け出そうと、放浪しているジプシーたちに協力を求めて、アナを救出する。

船で各国を旅していたヨハンの父親が故郷に戻ってくる。港で、息子が出稼ぎに出ていると聞かされ、ヨハンが逃げ出してきた農場へ向かい、息子の足取りをたどる。

アナとオライとヨハンは、夕暮れ時に、魚を捕まえて、たき火をしていた。暗くなってきた頃に、大きなクマが現れる。ヨハンは、火を使ってクマを追い払おうとするのだが、突然銃声が響いて、クマが倒れる、ヨハンの父親その場にやってきて、クマを撃ったのだった。親子の再会だった。

翌日、家畜を食い荒らすクマを倒してくれたということで、ヨハンと父親は、農場主からお礼をたくさんもらう。ヨハンに意地悪ばかりしていた兄弟も、ヨハンに靴をプレゼントしたり、反省していた。無事家族のもとに帰り、ハッピーエンド。死産をした母親を思ってか、アナとオライも、家族の仲間に入れる。


1er amour (2013)

1er amour (2013) ★★★★

憎いほど映像が美しかった。夏休み、山の中の別荘にやってきた父母息子の三人。緑生い茂る大自然の中、太陽の光をたっぷり浴びて、優雅にランチ。テーブルの上には赤ワインなんかおいてあって、フランス語で流暢におしゃべり。うらやましすぎる夏休み。しかし、浮かれすぎていたせいか、近所の住民との関係が色恋沙汰に発展し、家族はバラバラになり始める。。

13歳のアントワーヌ(Loïc Esteves)は、隣に住んでいる女の子に一目ぼれをする。タイトルを日本語に訳すと「初恋」。彼の甘酸っぱくて切ない初恋物語である。初めて女の子を好きになるのだが、その子にはすでにボーイフレンドがいた。目の前でいちゃいちゃする二人を、さびしそうに眺めることしかできないアントワーヌ。

アントワーヌが恋に落ちる女の子、アンナは、精神的に不安定だった。両親がいない間に、部屋に男友達、アントワーヌを呼び込んで、クラブミュージックもガンガンかけて、煙草を吸ったりドラッグをやったりしている。ちょっとだけやってみないかと、ジュースの中に混ぜ、アントワーヌにも飲ませるのだった。そこからのアントワーヌが、ぼんやりと虚ろな目をして、フラフラで、なんとも言えない色気を漂わせていた。彼の魅力たっぷりに作られたような映画。

オナニーする場面があった。好きな女の子にドラッグを盛られて、ふわふわしながら家に戻ってきて、窓から月明かりの空をぼんやり見つめる。ベッドに横になって、あの子のことを考えながら、しこしこし始めると、「こんな時間までどこに行ってたの!?」と、いきなり母親が入ってくる。ぎりぎりばれずに済んだ。

実らぬ初恋によって落ち込んでいるアントワーヌが、大自然の中を、クラシック音楽に合わせて歩き回る。そういう美しい場面が多い。誰にも悩みを相談できずに、自分の中にため込んでいくアントワーヌ。しかも、そんな風に歩き回っているうちに、次から次へとショッキングなことばかり目撃してしまう。特に、父親とアンナが、木陰でキスや、それ以上のことまでやっているところに遭遇したとき、アントワーヌは思わず涙を流す。

それにしても、アントワーヌの父親もどうかと思う。ずいぶん年の離れた女の子と、しかも野外でいやらしいことをし始めるのだ。息子のアントワーヌに見られてしまい、父親の威厳が完全になくなる。ただアントワーヌも、このことを誰かに言ってしまえば、家庭が崩壊してしまうかもしれず、誰にも言えない。まさか好きな女の子が、自分の父親と…

そしてそのあとの食事のシーン。アントワーヌは、テーブルに置いてある料理には目もくれず、父親をずっと睨みつけている。父親もその鋭い視線を痛いぐらい感じているのだが、恐る恐るちらっとアントワーヌを見るだけで、すぐに目をそらす。そんな二人の異常さを母親も察する。昼間の太陽に照らされ美しい緑の中、その場だけが異様な冷たさ。

最終的に、父親と女の子とのことは、みんなに知れ渡ってしまう。母親は泣いて、女の子は、海の方へ駆けていき、飛び込む。そしてアントワーヌは、女の子を追いかけて、おぼれているその子を救い上げるのだった。


2014/10/17

Osada havranu (1978)

Osada havranu (1978) ★★★

大昔、石器時代の話。一時間ぐらいで見やすかった。敵対する部族との争いや、仲間の裏切り、少年の成長と、わかりやすい物語。紀元前の話だからといって、猿みたいな人間が出てくるわけではなくて、登場人物はみんな白人。毛むくじゃらで汚れていてということもなく、美男美女もいる。

小さい布で隠しているだけなので、露出度が高かった。「蠅の王」「青い珊瑚礁」みたいだった。ただ、「蠅の王」でいうところの残酷な人間関係や、「青い珊瑚礁」の男女二人だけのアダムとイブ的な恋愛物語など、ハラハラドキドキの展開にはならず、普通の社会にも通じる一般的な話だった。男は狩りへ、女は家事。多く獲物が取れた時には、隣の集落に差し入れをして、よい関係を保つ。子供たちは、先輩たちの姿を見て、勉強したり、狩りの練習をしたりして、立派な大人になるための準備をする。

石器時代の映画を見たのは初めてだった。SF映画などで、猿だけの惑星とか、大昔が舞台になっていることがあるが、あくまでフィクション。それらに比べると、一応は当時の生活に近づけているのかもしれない。女の人でもわき毛がぼうぼうだった。その割りに髪の毛や肌はきれい。話とは別のところに注目してしまう映画だった。


2014/10/16

Obediencia perfecta (2014)

Obediencia perfecta (2014) ★★★★★

寄宿舎で修行を積むジュリアンと、エンジェル神父の不思議な関係を描いた作品。神学校は規律が厳しく、もちろん女の子はいないし、そこで生活する年頃の男の子たちにとっては、欲求不満でおかしくなりそうな環境だと思う。あと、生徒たちを導く神父たちにとっては、若くて可愛い少年たちと毎日一緒に過ごしていれば、そのうち変な感情が芽生えてしまうかもしれない。そういった寄宿舎での危険な雰囲気がテーマになっている映画でいうと「バッド・エデュケーション」「The Boys of St. Vincent」など見たことがあるが、それらでは、子供たちを虐待した神父が悪い、と分かりやすい構図だったが、この映画では、子供たち、神父たち、どちら側の立場からも描いていて、奥が深いと思った。神父たちが、ジュリアンのことを気に入るのは分かるが、ジュリアンも、自分に良くしてくれる神父たちに悪い気はしていないようだった。しかし中には見るからにゲイである神父もいたりして、体を触られるなど被害を受けた生徒が、泣きながら親に電話をするという場面もあった。夜中に神父が子供たちの寝ている部屋に入ってきて、ある男の子のところへ行き、そっと起して、別の部屋にその子を連れて行くという場面も何度かあった。


ジュリアンは、神学校に入ることを親と約束していた。親とは離れるが、神学校全体が一つの家族という感じだった。神父と少年たちはお互いのことを、Father, Sonと呼びあうのだった。

ジュリアンは、いつも使っている枕と、弟がくれたテディベアを抱いて神学校へ向かう。この時のジュリアンはまだ弱虫だった。テディベアのことで上級生たちに女々しいと馬鹿にされたり、授業中に優等生っぽく振る舞うと、あとでいじめられたりする。しかし、そこは神父たちの支えもあって、ジュリアンは立ち直り、悪友たちともつるむようになって、煙草を吸ってみたりエロ本をのぞいたりと、普通の少年のように神学校での生活を楽しんでいたようだった。

そしてあるとき、生徒一人ひとりが足を洗われる儀式(?)が行われる。真っ白の服を来た男の子たちが横一列に座って、一人ずつ、足に水をかけられて、そこにキスをしてもらうのだった(画像4)。学校で一番地位のある神父、エンジェルは、以前から気になっていたジュリアンの前に来ると、ほかの生徒にするよりも、緊張した様子で、ジュリアンの足を洗い、キスをするのだった。

エンジェル神父は、完全にジュリアンのことが気に入ってしまったようだった。少年たちがシャワーを浴びるているのを見回りするときでも、ジュリアンのところで足を止めて、眺めているし(画像5)、外でサッカーをしている子供たちの中でも特にジュリアンを目で追う。彼がシュートを決めた時に、エンジェル神父の心も射抜かれたようだった。

ついにジュリアンは、エンジェル神父から声がかかり、彼の住む屋敷に招待される。学校で寝泊まりするのではなくて、しばらくの間、広くて豪華な屋敷で生活できるのだった。これは慣習のようなもので、神父に選ばれた生徒は屋敷で寝泊まりし、彼の世話係をするのだった。エンジェル神父は、ジュリアンに「私はなぜ君を選んだのかわかるか。君の足を洗った時、神が…」と小難しいことを言っていたが、神父たちも大変で、個人的に気に入ったという理由で一緒に過ごす少年を決めてはいけなかった。あくまで宗教上の理由をこじつけて、選出しなければならないのだった。ただ、実際のそのときのエンジェル神父の気持ちは分からない。

生活を共にしていくうちに、二人の関係は変な感じになり始める。もちろん、神に服従している身の彼らの間に恋愛感情などあってはならない。エンジェルもジュリアンもそのことは分かっていた。ただ、エンジェル神父は他の生徒よりもジュリアンをひいきしてしまうし、友達と雑談し笑っている彼を、遠くの方からにんまりと眺めているのだ。

ジュリアンにとっても、選んでもらったことがうれしくて、エンジェル神父にとって自分が一番の存在ででありたかったようだった。しかしあるとき、エンジェル神父が女の人といちゃいちゃしている様子を目撃してしまう。その時こそは、神父の悪口を言うことは重い罪だと分かってはいても、エンジェル神父に口答えをしてしまうのだった。

エンジェル神父は、膀胱に痛みを感じる持病のようなものを持っていた。夜中に、エンジェル神父がその痛みで悶えていると、それを聞いたジュリアンは、ベッドから起き上がり、エンジェル神父の部屋に行く。「紅茶を持ってきましょうか。」とか、心配そうに言う。エンジェル神父は「これは神が私に与えた試練だ」とか、ジュリアンに話して聞かせる。そうしてるうちに、エンジェル神父は明かりを消して、こっちにきてくれと、ジュリアンをベッドの中に入れるのだった。そこから真っ暗で何も見えなかったが、出産するときのように苦しそうな一定のリズムで呻き声が聞こえてくる。ジュリアンがエンジェル神父の股間を癒してあげていたのだと思う。そこが一番親密な場面だった。

次第に、二人の関係も終わりに近づいてくる。ジュリアンは、エンジェル神父にもらった神の言葉が書かれたカードを、自分だけにくれたものだと思っていて、大切にしていたのだが、他の子ももらっていることに気づいてしまう。ついには、「僕とだけ一緒にいて」と言うが、エンジェル神父は「一人を特別扱いすることはできない」と言う。

そしてまた、例の足に水をかける儀式の時期になる。エンジェル神父はいつも通り、新しく入ってきた男の子たちの前に行き、次なる子を選ばなければならなかった。その儀式の際に、エンジェル神父が涙を流したところで映画が終わる。ジュリアンと離れるのがさびしかったのか。

2014/10/10

悪童日記 (2013)

A nagy füzet (2013) ★★★

昔読んだことのある小説が映画化した。普段あまり本を読まないので、映画化されると聞いた時から楽しみだった。「悪童日記」が好きになった理由としては、まるで作者に感情が籠っていないような、あっさりしている文章が、自分にとってはとても読みやすかったというのもあるし、簡単な文章の中に現れる、双子(ぼくら)や戦争の狂気みたいなものが、物語の世界観にぐいぐい引きこんでいってくれたからだった。文章の書き方について、ある人が、「少年の体のような文章」(無駄がないという意味?)と表現していたが、本当に少年の書いた日記を読んでいるようである。これは作者が母国語ではない言葉で綴った文章であるためだと言われている。普通の小説とは一味も二味も違っているところが気に入っていた。

それで、実写化された「悪童日記」のを観た感想としては、カルト映画と言っていいんじゃないのか、万人受けはしないだろうなって感じ。どろどろした家畜の餌とか糞だらけの、汚いおばあちゃんの家にやってきたのは、真っ白い小奇麗なシャツを着た少年二人。顔も服も綺麗な二人がまきを割り始める違和感。「メス犬の子供」と呼ばれ、二人とも同じ顔でおばあちゃんを睨みつけ、「死んでしまえ!」と言い捨てる。音楽も不思議だった。太鼓の音が聞こえてきた。一番期待したラストシーンは、期待以上の素晴らしさでみせてくれた。柵の上に座って、改めて覚悟を決めているような双子のうちの一人。地面から見上げるようなショットで、青空と一緒に映し出す。双子たちの手段を択ばない策略の後の、なんとも言えないすがすがしさ。

一応原作があって物語が存在するので、それには忠実になって映像化している印象だったが、何か微妙なバランスで話が展開していって、そこがまた原作の文章の狂気な感じとマッチしていると思った。傑作だったと思う。ただ、映像化不可能と言われたように、見て感想を表現することも不可能。とにかく見てもらって双子の魅力や戦争のえぐさが伝わればいいと思う。


2014/09/15

HOMESICK (2012)

HOMESICK (2012) ★★

職を失い一人でどうしようもなく一軒家にいる若者が、悪戯をしに来た3人の子供たちに元気をもらう話。正直言って面白くはなかったが、こんな駄目なやつもいるんだと、前向きな気持ちになった。

駄目なやつとは言っても、会社がつぶれてしまったことが原因なので、本人のせいではない。それなのに、しっかり自立して不動産屋で働いている幼馴染の女に、「健二君はほんとどうしようもないね」とか言われていて、何もわかっていない女だなと思った。

職を失っても、考えようによっては、自由になったととらえることができる。健二と職場の仲間たちはそう言っていたが、いざ何もすることがなくなると、落ち込んでいくのだった。そんなときに悪戯3人組が、健二のところにやってきて、多少なりとも彼は救われる。

玄関に置いてある犬の置物の顔が何度もアップになったりして、あれはいるのかとか思ったが、言葉で説明する映画ではなくて、感覚的な映画なのだと思う。気に入った場面はというと難しいが、健二と不動産屋の女との絡みを見ていて、かつて一緒に学校に通ったクラスメイトたちに同窓会で久しぶりに会った時など、ああ、こいつは落ちぶれたなとか、言葉に出さずとも思われていそうで怖い。そういう場面で、成功したと思われる人がいたとしたら、どういう人だろう。


2014/09/14

ラッキ (1992)

Lakki (1992) ★★★

ラッキ(Anders Borchgrevink)という少年が苦しんでいる姿を延々見せられたような映画だった。両親ともに問題を抱えていて、自分の部屋で悶々とし、学校に行っても嫌いな教師に目をつけられ、街に出ても変なおじさんに連れてかれるしで、八方塞がりのラッキだった。彼にとっての唯一の救いが、自分の背中に羽が生えてくるんじゃないかと、妄想することだけだった。羽が生えたり消えたりする夢を繰り返し見て、ベッドの上でのたうちまわっていた。途中から、浮浪者のような男にドラッグを盛られ、現実と幻覚が入り乱れた映像がしばらく続く。カオスだった。

つらい現実を忘れるための、ストレス発散方法を見つけておくといいと思う。映画を見たり運動をしたり、何でもいいと思うが、ラッキの場合は妄想することだった。幸せだった幼少期の思い出に浸ったり、羽の生えた自分の姿を想像して何とか凌いでいた。彼の部屋にはチェスボードが置いてあって、母親が触ろうとすると怒る。一人で駒を動かしている様子から、荒ぶれた中にも繊細さのある少年であることがわかる。

辛い少年時代を送った子は、将来的にその経験が何かしらの形で役に立つことがあると思う。それに打ち勝てば、たくましい人間になれるかもしれない。ただそれに打ち勝てず自殺してしまうこともある。まあ頑張るしかない。

ラッキが裸でもがいている姿など、よく作れたなって思った。「トムとローラ」「Barnens ö」のような感じ。もろには映っていないが、露出が激しく、ラッキという美しい少年の、ダークな面ばかり取りだてたイメージビデオのような映画だった。1時間40分見るには長く感じた。


2014/09/06

シェフ (2014)

Chef (2014) ★★★★

飛行機の機内で鑑賞。有名なシェフだったカールが、自分の料理を評論家にめちゃくちゃにけなされたことをきっかけに、トラック屋台でサンドイッチを売る商売を始める。彼にとっては屈辱的な成り下がりだったが、息子のパーシー(Emjay Anthony)と協力して屋台をまわしていくうちに、これまでほったらかしだった彼との絆が深まったり、妻や友達のありがたみを実感して生き方を改めるのだった。

初めこそ嫌な仕事だと感じても、やっているうちにやりがいを見出せるという内容に勇気をもらえた。辛い状況になっても、その分家族一丸となって乗り越えていけるし、前向きに一生懸命やっていればきっと良いことがあると思えた。

包丁で野菜を切ったり、パンをあげたり、見ていて気持ち良いぐらいの手際のよさ。これほど料理がおいしそうに見える映画は他には知らない。彼らが作る料理がジャンクフードという馴染み深い食べ物だったのでそう思えたのかもしれない。チーズのとろーり加減など最高だった。

ツイッターがキーアイテムとなって話が進んでいく。息子のパーシーは、ネットに疎い父親の変わりに、SNSを使いこなしてトラック屋台の宣伝を担当するのだった。市場で材料を仕入れて回っている最中に、さりげなくツイッターでつぶやいて、戻ってくる頃にはトラック屋台の周りに人が列を作って今か今かと開店を待ちわびているのだった。短い動画をアップできるコンテンツ、「vine」なども登場してきて、そういえばこのアプリ知ってる、こんなのも映画に出てくるようになったのか、と思った。10歳の息子が器用にスマホを使いこなしている様子を見てカールは驚いていたが、自分も彼と同じように驚いたので、そろそろ時代の変化に疎くなっているのかもしれない。

ちょうど、ひと夏の体験を描いた話だったので、旅行帰りの自分の境遇と重なって感情移入できた。パーシーは夏休みを利用して、普段は厨房にも入れさせてくれなかった父親と、屋台の厨房でせっせと肉を焼きながら各地を回った。終盤になると、そんな夏休みの日々を一日一秒撮りためてあったvineの動画をつなぎ合わせて、父親にメールで送るのだった。(画像10) 「ニューシネマパラダイス」のキスシーンのつなぎ合わせを観たときのような感動があった。息子が作ったその動画を見ながらカールは目に涙をためていたが、真っ暗な機内で自分も目をうるうるさせてしまった。やっぱり夏休みは一年で一番楽しい期間。来年からは仕事なのでそんな夏休みはなし。

個人的に、父親と息子の関係を描いた作品にぐっと来るものがある。この映画もそのひとつ。コメディタッチなので、テーマやメッセージなど、押し付けがましくもない。「スコットと朝食を」のように、ハートフルな映画だった。機内の小さい画面で観たとはいえ、本当にいい映画だったと思う。

2014/08/07

星になった少年 Shining Boy & Little Randy (2005)

星になった少年 (2005) ★★

象使いになろうとタイで修行を積み、20歳の若さでなくなった坂本哲夢さんを描いたもの。実話に基づいている。原作は「ちび象ランディと星になった少年」。主演の柳楽優弥くんは、初めての映画主演作「誰も知らない」で最年少記録で男優賞を受賞。「星になった少年」は、彼の主演二作目。一作目の成功で、世界から注目されていたとしたら、この作品を観てがっかりした人は多かったかもしれない。

家族で動物プロダクションを経営しているテツム(柳楽優弥)は、学校で動物くさいと馬鹿にされて、仲間はずれにされていた。いろんな動物を飼っている少年なんて、人気ものになりそうなものだが、テツムが触るもの、蹴り返したサッカーボールまで、動物臭が感染したということで、気持ち悪がって誰も触らない。徹底した差別だった。

学校に通っていても楽しくないし、人間とかかわるより、動物とかかわっていたほうが幸せだったテツムは、象使いになろうと、思い切ってタイに修業しに行くことにする。中学生が1人でタイに行くっていうので、どうなるのだろうとわくわくして観ていたのだが、いざタイに移り住んだテツムや周りの環境を観ていても、異国らしさ、非日常な感じがあまり感じられなかったので残念だった。なんとなくタイ語を話せてしまい、言葉の壁を痛感することもなく、現地の同年代の子たちともすんなり仲良くなってしまうし、そこらへんが原因で、思い切って外国に移り住んだというカタルシスは感じられなかった。また、タイでの2年の修行を経て、日本に帰ってきたときも、周りの反応が薄すぎるのである。観ている側としては、帰国してきたテツムへの歓迎であったり、家族のリアクションの描写は見たいところである。軽いあいさつ程度のこともなく、今までどおりクラスで退屈そうに授業を聞いているテツムの姿があるだけだった。家族との再会の場面もなく、今までどおりファームで象とそこにいるだけだった。まさかと思って巻き戻して見返したぐらい、あっさりしていた。

あと、タイでの場面で、テツムが滝に落ちかけて、助けてぇ、となっているときに、今までなついてくれなかった象がやってきて、鼻を伸ばしてテツムを助けるというのがある。それで象とテツムの間に信頼関係が生まれるというわけだが、いまどきこんなのを見せられても…。


2014/07/21

僕はもうすぐ十一歳になる。 (2014)

僕はもうすぐ十一歳になる。 (2014) ★★★

新宿のK's cinemaで一週間しか上映されないらしいので、観たい方は早めに。

十歳の男の子、翔吾(濱田響己)は昆虫が大好き。学校の友達と遊ぶよりも、一人で昆虫を追いかけているほうが楽しい。海外出張の多いお父さんになかなか会えないからといって、ひねくれている様子もない。話し方とか、表情とか、とてもクールな男の子だった。上映後の舞台挨拶で、翔吾を演じた濱田響己君を目の前で見たが、映画と同じように、クールな振る舞いで、目がきりっとしていた。

自分は子供の時、昆虫採集にはまったことはないのだが、何かを収集するということで、共通する思い出は多い。例えば、カードゲームなど、どのモンスターの攻撃力がどれだけ高くて、このカードにはこういった効果があるなど、すべて覚えていた。何千枚もあるカードの中から、母親に一枚選んでもらって、それについて説明してみせると、すごい記憶力だと驚いていた。興味のある事なら覚えられるのだった。これが英単語とかだったら、成績も良かったのに。翔吾も、助手である女の子が捕まえた昆虫の名を言い当て、昆虫博士っぷりを披露する。

この映画のテーマは死生観。昆虫を捕まえては殺し、標本にしていく翔吾が、父親の考え方や祖母の死に触れていくことで、命というものを意識し始める。最終的に、羽が破れて見た目の悪い蛾をごみ箱に捨てていた彼が、綺麗なテントウムシを捕まえても、空に逃がしてやるぐらいには、生物の命について考え始めたのだった。

全く予備知識がなかったので映画のテーマが最後まで分からず、どうなるのだろうと期待して観ることが出来た。全編を通して、何か怖いなと思ったのは自分だけではないはず。それらの原因は、翔吾の心が読めない淡々とした受け答え、お父さんの、ブータンで学んできたという生まれ変わりの意味深な言葉、ときどき見せる原因不明の寂しそうな表情、薄暗い照明の当たり方など、だろうか。特に怖さが最高潮だったのは、翔吾がおばあちゃんの遺骨を盗んできたとき。何をするつもりなのか予測できず、翔吾のクールさがさらに不気味さを煽った。家に帰って一人で部屋に籠り、こっそり盗んできたおばあちゃんの遺骨を顕微鏡でのぞく。そしてぼそっと「おばあちゃん…」とつぶやく。これだけ見ると、「この少年、何かがおかしい」と言ったフレーズのつけられていそうな、ホラー映画ぽく見えなくもない。標本にされている昆虫の隣に、おばあちゃんの遺骨も一緒に並べて、コレクションの一つにしてしまうのかと思った。そんなサイコな少年が出てくるホラー映画も少なくはない。そう展開しても面白かったかも(?)

もちろんそんな展開にはならず、おばあちゃんの遺骨は彼なりに供養して、川に流すのである。翔吾は命の尊さを意識しながら、これからも大好きな昆虫採集は続けていくべきだと思う。


2014/07/15

ぼくの小さな恋人たち (1974)

Mes petites amoureuses (1974) ★★★★★

2年ほど前にレンタルVHSで一度見て、ずっと記憶に残っていたこの映画。いつかDVDを買っておこうと思っていて、ついに購入(中古で約8000円)。なぜこれほど気に入ったのかわからないが、間違いなく主役のマルタン・ロエブの存在は大きいだろう。

少し影のある少年、ダニエル(Martin Loeb)を中心に、ほんとに何も起こらない日常風景が淡々と描かれているだけである。特に、人物が歩くシーンが多くて、本編の3割はただ歩いているシーンだけを見せられたのではないかと思われるほど。それだけ単調で、どうしてこのシーンにこれだけの時間をかけている?と間延びしているようにも思われる。

ただ、そんな場面の中に、なにか美しさみたいなものがある。もちろん、主役のダニエルもかっこいいのだが、彼を取り巻く人間関係が、どこか冷めていて、静かで、ほとんどキャラクター性が分からず、普通の映画でこれをやってしまったら、面白味の何もない駄作になってしまうだろう。ただ、この映画の人物たちは、それでもうまく存在感を出しているように思う。無駄口を一切たたかずに、それでも横一列になって街を歩いていく様子は、ファッションショーか何かのウォーキングを見ているよう。

ダニエルは、ロボットのように、何を考えているのか不明な少年である。頭脳明晰で、試験の成績がよく、新聞に載るほど。しかし「何がしたいの?」と聞かれても、「別に何もない」といい、「卒業したら、僕はお母さんの所へいくらしい」と、自分のこれからの生活なのにもかかわらず「らしい」で片づけてしまっている。彼の父親はすでに亡くなっているか、どこかへ消えてしまっていて、母親は、別の国の男と不倫の関係にあった。中学を卒業すると同時に、近所の幼馴染とお別れをし、母親と男と町に移り、3人で暮らすことになる。収入がなく、せっかく奨学金で高校に通えるのにもかかわらず、町工場で自転車の整備などをする仕事に就かされる。それでも、ダニエルの様子を見ていると、高校に行けないことを悔しがっている様子はあまりない。

ほんとに、どこかの国の、知らない町の、なんでもない情景を見ているだけなのだが、謎の違和感のようなものが画面から伝わってきて、ぼうっと眺めているだけでも心地よい。それこそ、人物たちの歩く様子であったり、ダニエルの、我関せずの振る舞いであったり、一緒にいる仲間のよそよそしさが、その違和感を原因なのではないかと思う。人間的な交流が、ダニエルの女の子へ対する好奇心以外に見られない。

新しい町に引っ越してからのダニエルには、何もなかった。母親は1日中仕事だし、おじさんは畑の仕事をしているとは言っているが、奥さんがいて、どこで何をしているのかわからない。高校へ通って、出来の良い頭を発揮する場もない。そんなダニエルが唯一意識したことが、町の女の子なのであった。後半になるにつれて、ダニエルの関心は女の子で一杯になっていくようだった。男女の出会いの場として知られる並木道をふらふらしたり、なんとなくベンチに座って、目の前のカップルがキスをしているのを眺めている。映画館の薄暗い中で、キスをしている男女を見かけたら、ダニエルも近くに座っている女の子の頭に顔を近づける。そして、思い切ってキスを試してみるのだった。修理工として店の番をしているときも、街行く女性たちを眺め、この時間帯にはあの女性が来る、毎回違う男と一緒にいる女性がいる、という感じで町の女性たちを観察したおす。

終盤になると、青年たち5人ぐらいが一緒になって、全力で女の子をナンパしに行く流れになってくる。ダニエルも、そんな年上の仲間たちと一緒になり、異常なほどにすました様子で、カフェのテラスから女の子を眺めているのだった。慣れないたばこをふかし、足を組んで、男たち全員が同じ視線を女の子たちにおくるのだった。

そして、いよいよダニエルが1人の女の子を捕まえるラストシーン!これまでの違和感が最高潮に達して、不気味過ぎるほどにひたすら歩く!草木が生い茂る中に一本通った長い道を、ダニエルともう一人の男が一緒になって、前の二人の女の子を追いかけて行くのだ。先頭を行く二人の女の子、追いかけるダニエルと隣のもう一人の男、そして抜け駆けを許した残りの男たち三組による、女の子争奪徒競走である。少しぐらい早歩きになっていいものだが、全員が決して焦ることなく、あくまで澄ました様子で道を進んでいく。 それで、ようやくダニエルが女の子に追いついて、唇へのキスを勝ち取るのだった。その瞬間の二人を、ぐるっと回るように映すカメラ。風にそよぎながら、日に照らされ金色に輝く草木。そして、あきらめた残りの男たちがUターンをして、来た道を戻っていく様子。完璧!

ただ、そのまま恋が実るということにはならず、おそらくダニエルと女の子は、その後しばらく会うことはなかっただろう。その女の子とキスをした段階でのダニエルは、まだまだ幼かった。しかし、夏休みに入り、生まれ育った町に戻ってきた彼は、確実に成長していた。女の子を追いかけた新しい街での仲間たちは、ダニエルよりも年上で背が高くて、ダニエルはいろいろと学ぶ側だった。ところが、もともと居た町に戻ってきて、幼馴染たちと再会すると、彼らはダニエルよりも背が低く、ほんの子供のように見えた。そしてダニエルは躊躇なく、一人の女の子を後ろから抱きしめるのだった。そういうところからも、彼の心持の変化が見て取れる。


リアリティのダンス (2013)

La danza de la realidad (2013) ★★★★★

ホドロフスキー監督23年ぶりの新作。こんなにスパンが空いたのは単純にお金が溜まらなかったからだそう。そして現在、次回作の「フアン・ソロ」を製作中。

主役のブロンティス・ホドロフスキーは、1970年制作「エル・トポ」で、裸で馬にまたがっていたあの男の子。今回も全裸になっている。父親の映画に出るたびに、チ○コを披露させられている。完成することなく終わった「ホドロフスキーのDUNE」の時は、武道家の先生のもとで数年間訓練を受けさせられた挙句、その成果を披露する場が突然失われてしまった。映画のためなら片腕を失ってもいいという父親に振り回されている。

ホドロフスキー自身の幼少期も、権威的な父親の言うことは絶対で、逆らうことが出来なかったことが映画を観ているとわかる。「リアリティのダンス」は、ホドロフスキー自身の辛い少年時代を、慰めの意味も込めて作られた。劇中でホドロフスキーは、長髪の金髪の少年として登場してくる。父はそんな彼のことが気に入らず、オカマだとか言って、幼児虐待ではないかというぐらいに厳しく接する。バコバコと殴り、「もっと叩いてください!」と言わせて、歯が折れてしまうまでやめない。そのあと彼を歯医者に連れて行って治療をするのだが、父親は医者に「麻酔なしで治療してください(あとでフランス産のワインを贈るから)」と言って、医者と父親とで、ホドロフスキー少年をいじめる。印象的だったのは、足の裏くすぐり拷問である。「男なら絶対笑うな!」と、ホドロフスキーを裸にし、鳥の羽で足とか脇とか鼻をこちょこちょするのである。何の意味があったのか。

前半はほとんど、苦しむホドロフスキー少年を観ていた感がある。斬新で面白いと思った場面は、少年たちによる集団オナニーの場面。学校の授業か何かで海岸に来ていた生徒たちの中の、ある男の子が「シコシコしようぜ」と周りの子たちを誘い、人目のつかないところに移動する。ホドロフスキー少年もついていく。それで10人ぐらいでシコシコし始めるのだが、直接的には映っていなかった。そのかわり一人一人が、チ○コの形を再現した木の棒を持って、それをこすり始めるのである。みんなシンプルな形をした木の棒なのだが、ホドロフスキーの棒だけ、先の方が膨らんでいた。それを見た周りの少年たちは「キノコだ!」と大笑いし、深く傷ついたホドロフスキーは海に身投げ自殺をしようとする。実際に彼は割礼をされていたので、先が膨らんだ木の棒だったというわけだった。

少年期のホドロフスキーを演じたのは、イェレミアス・ハースコヴィッツ(Jeremias Herskovits)。まつ毛が長くて唇が赤くて、金色のかつらを被り、鮮やかな水色の服を着た彼は、人形のように可愛かった。ところで、ホドロフスキー監督の過去の作品は、汚い画質のものしか観たことがなく、その映像の粗さと、いわゆるカルトと呼ばれるぶっとんだ内容とが良い感じにマッチしていて、そこが気に入っていたということもあった。今回綺麗な映像になってくるとどうだろうかと思っていたが、そんなふうに人形のように綺麗な男の子を観られたのでとても満足。カラフルな街並み、真新しい派手やかな衣装、それらが鮮明な映像で観られることで、現実離れした不思議な世界観を生み出していて良かったと思う。

笑える場面も多い。ホドロフスキーの母であるサラは、セリフをすべて高い声で歌うように話す。実際にホドロフスキーの母親はオペラ歌手だったらしい。旦那とセックスをしているときの喘ぎ声も、高い声で、合唱する前の音程合わせのような感じで、ハァハァハァー♪と繰り返し言うので、笑わずにはいられなかった。サラは何度も服を脱ぎ、巨大な肉体とおっぱいを惜しみなくさらしている。

そして、最も衝撃的な場面であろう、サラの放尿のシーン。ペストに侵されて、肌もただれた状態になっている旦那に、おしっこをかけるのである。なんと次の瞬間には、旦那の体は元通りに回復しているのだ。購入したパンフレットに、その場面についてホドロフスキーが言及している。多くの宗教の中で尿には人を癒す力があり、神に祈りをささげ、川のように放尿することは、彼女の一番大きな愛なのだとか。

とにかく、いくら語っても意味のないぐらい映像から受けるインパクトが大きい。サラやハイメの股間にはぼかしが入っているのだが、なぜか最後だけハイメの股間にぼかしが入っていなかった。ホドロフスキーの身内が3人出演していて、あくまで自分のために、自分の人生を見つめなおして作られたような映画。最後まで見終わった時にはなぜだが癒された。


2014/06/23

テルレスの青春 (1966)

Der junge Törless (1966) ★★★★★

60年代製作の寄宿舎もの。これだけでそそられる。「寄宿舎 悲しみの天使」の美的感覚と同性愛的雰囲気はそのままに、そこに「蠅の王」の子供たちだけで隔離された状況に生まれるサディズム感を取り入れたような内容。上映時間90分。間延びすることなくコンパクトにまとめられた傑作!現時点ではDVDにはなっていない。

監督は「ブリキの太鼓」のフォルカー・シュレンドルフ。思い返してみても意味不明なあの映画。気持ち悪くなるけどまた観てみたい。そんな映画を撮った監督なので、良くも悪くもこの「テルレスの青春」も一筋縄ではいかない。

主役のテルレス(Mathieu Carrière)。学識があって普段から詩などを書きためている少年。端正な身のこなし。口にすることが哲学的でよくわからない。無理数の存在が許せないらしく、数学の先生へ質問攻めし困らせる。そして彼の周りで起こったいじめの状況を、その無理数の話と関連付けて、教授たちのところへ抗議しに行く。おかしな奴だとしか思われず、こんなところやめてやると、寄宿舎を出ていくのだった。

子供たちの関係がおかしくなったきっかけは些細なことだった。少しどんくさい小太りのバジーニが、友達のお金をこっそり盗んでしまうのだ。周りの抜け目のない少年たちはこの事件を見逃さなかった。ここぞとばかりにバジーニに付け入って脅し始める。そして彼らの好奇心を満たすために、バジーニをおもちゃのようにするのだった。もともと、バジーニがお金を盗んでしまったのも、彼らが仕向けた罠だったように思う。

少年たちは、いろんなことをバジーニに強要する。繰り返していくうちに、彼らも飽きてくるし、バジーニ本人も、いじめられることに慣れてくる。そうなったら、また新しい一歩踏み込んだことをバジーニで試すといった、負の連鎖が繰り返されていくのだった。彼らがバジーニを連れて行くのは薄暗い屋根裏部屋。ろうそくの明かりがゆらゆらする中で、バジーニは裸で歴史の教科書の残酷なページを朗読させられたり、催眠術を掛けられて痛みの感じない体にさせられる。腕に熱した針を刺してもぴくりともしない。

いじめっ子の側にいたテルレスだったが、バジーニを助けたいと思い始める。ただ、バジーニの肩を持つと今度は自分までいじめの対象になりかねない。そこでテルレスがとった行動は、何も言わずただ傍観することだった。この寄宿舎で起こったテルレスを含む子供たちの構図は、ユダヤ虐殺を見て見ぬふりをしたドイツ人のエゴイズムに重なるのだそう。この映画の原作は、ヒトラー政権下で発行された「若いテルレスの惑い」。映画でのいじめられっこバジーニはどんくさいが、原作のいじめられっこは美少年らしい。「ベニスに死す」のヴィスコンティが映画化を企画しただけはある。ただテルレスとバジーニがどちらも美少年だったら微妙で、バジーニがあんなんだから妙にリアルでより残酷な内容に思える。

クールで冷静なテルレスだったが、寄宿舎にいる数少ない大人の女性の部屋に行ったときだけは、恥ずかしそうにしていた。


太陽と月に背いて (1995)

Total Eclipse (1995) ★★★★

レオナルド・ディカプリオが一番美しい時期の出演作だと思う。そんな彼が裸になってお尻を出したり、おじさんとキスしたり、セックスまでする。2人は仕事のパートナーとして一緒にいるのだが、ある時から愛が芽生えてきて…と言う感じである。

今でもかっこよくて活躍しているディカプリオだが、最近では「ジャンゴ 繋がれざる者」「ウルフ・オブ・ウォールストリート」など、ちょっと狂った役が多い。この「太陽と月に背いて」を観終わると、彼はキャーキャー言われるアイドル的な俳優ではなくて、どんな役でも体当たりで演じる実力派(?)なのだと認識し直した。おじさんとキスするシーンや裸でじゃれあうシーンでも、どんなおかしなことでも活き活き演じている印象だった。出演当時は二十歳ぐらいだが、持前の童顔っぷりで設定の16歳でも全く違和感がなかった。

ランボー(Leonardo DiCaprio)は、がさつなふるまいからは想像もできないくらい詩を書く才能に長けていた。高僧に構えている先輩詩人たちに食ってかかる。偉そうに詩を朗読しているおじさんにおしっこをかける。ストーリーは二の次で、ランボーから目が離せなくなる映画だった。恋人のおじさんの手のひらにナイフを突き立てたてたり、逆に今度はおじさんがランボーの手のひらに銃弾を撃ちこんだり…よく分からない不思議な関係の二人だったが、愛し合っているようだった。

2014/05/24

恋のレディ&レディ? (1992)

Ladybugs (1992) ★★★

最弱女子サッカーチームを優勝させるために、男の子のマシュー(Jonathan Brandis)が女装をして試合に紛れ込むという話。劇場公開時のタイトルは「恋のレディ&レディ?」で、ソフト化されたときに「恋のキック・オフ/警告(イエローカード)!女装プレイヤーは出場停止!」と変わっている。

万年ヒラ社員のチェスターは、社長の娘が所属している女子サッカーチーム「レディバグ」の監督を任される。今シーズン、優勝まで導くことが出来たら出世させてもらえるという条件付きだった。サッカーのことなど全く知らなかったチェスターはどうすればいいか分からず、付き合っている彼女の息子であるマシューをチームに入れてしまおうと考えた。女子のチームでプレーするなんて絶対嫌だというマシューだったが、メンバーの女の子に一目ぼれしてしまい、参加することを決める。運動神経抜群のマシューが入ったことで、チームは見事に勝ち進んでいく。

面白かったのは、チェスターとマシューが女物の洋服屋さんに出かけていく場面。男の子に女の子の服を買おうとしている様子を店員さんは変な目でみる。そして2人して試着室に入り、何やらごそごそしている。「そっとやって!痛いよ!」と言うマシュー、「今はキツいがじきにゆるくなってくるから我慢しろ」とチェスター。カーテンの向こうでおじさんが少年に女装させていやらしいことをしているように見せる思わせぶりなシーンだった。

あと、結局マシューが男の子だったということがばれて、落ち込んだチェスターがバーで飲み明かすというシーン。悩みがあったら打ち明けた方が楽になるぞと、バーテンダーが言う。それを受けてチェスターは正直に、「彼女の息子に女装させてプレーしたんだ」と言いうと、そっちの意味に取られてしまい、店から締め出されるのだった。

話しの設定では女装しているのはマシューだけだが、試合の様子を撮影するときには、結構男の子が女装してプレーしていたのではないかと思う。太った女の子がドリブルをするのだが、足元のアップになった時だけ、すらっとした足になって見事なボールさばき。また女の子の全身のショットになると、今みたいな細かなステップは踏めないだろというような太い脚に戻っている。オーバーヘッドキックでシュートを決める場面も、あんなこと女の子が出来るだろうか。実はみんなカツラをかぶった男の子だったのかもしれない。


2014/05/19

嵐の前 (2000)

Före stormen (2000) ★★★

主役のレオ少年(Emil Odepark)が、裸で女子更衣室に閉じ込められるというシーンは、以前にどこかのサイトか、YouTubeなどで観たことがあった。ようやく本編も鑑賞。日常のちょっとした学校生活が題材なのかと思っていたら、どんどん規模がワールドワイドになってきて驚く。身近な殺人事件から、中東の戦争問題まで。

学校で、ダンという悪がきに苛められているレオは、警官である母親の拳銃を盗んできて、あるときダンを撃ってしまう。ここからは、ガス・ヴァン・サント監督の「パラノイドパーク」的なドキドキ感。誰にも見られてない…もしかしたら上手く逃げられるかも…街の至る所では警官が見張っている。その日以降、レオの日常は恐怖でしかなくなる。

確かに、レオはダンからひどいいじめを受けていた。ダンの自転車を毎日磨いてピカピカにしておかなければならないし、学校ですれ違うたびに小馬鹿にされるし、あるときは、裸にさせられて女子更衣室に閉じ込められる。ただ、拳銃みたいな危ないものが身近で手に入ってしまったことがいけなかった。森の中で、レオがダンに銃を突きつけたときには、一気に立場が逆転。何でもしますから助けてくださいと、レオに懇願するダン。ただレオも、自分が拳銃を構えていることにびびってしまっていて、いつ引き金を引いてもおかしくない状況だった。案の定、ダンがちょっと迫ってきたら、銃声がとどろいて、ダンは倒れこむ。

ここからのレオの、人を撃ってしまった直後のどうしたら良いか分からない感じが良かった。一度は逃げ出そうとするのだが、やっぱり立ち止まって、倒れているダンのそばに戻ってきて、とりあえず、カツアゲされたお金を取り返すのだった。

詳しい内容についてはお世話になっているサイトの「ノースエンド先生の映画講座」に載っているのでそちらを参考にしてもらいたい。http://northcinema.web.fc2.com/northend/northend-f00-1.html
例の女子更衣室の場面で、レオのあれが一瞬映るが、ちょうどもじゃもじゃしかけている時期なので恥ずかしかったと思う…。

私の息子 (2006)

Mon fils à moi (2006) ★★★★

主役のジュリアンを演じたVictor Sévaux君が可愛かったので鑑賞。そんな理由で観たので、まさかの衝撃的な内容にびっくり。母親に操り人形のように扱われて、ちょっと逆らっただけでぼこぼこ殴られ、蹴られるジュリアン…。

ジュリアンは、大学教授である父親を持ち、いいところに住んでいるお坊ちゃま少年だった。しかし、彼の母親がどうもおかしかった。息子に対する愛情が行き過ぎておかしなことになっているのだと思う。自分の息子を思い通りにしておきたくてノイローゼ気味である。ジュリアンが見たことのない服を着ているだけで、「そんな趣味の悪い服、どこから手に入れてきたの?今すぐ脱ぎなさい!」と言われたり、「サッカーか、お母さんと過ごす時間のどっちを取るの?」と、ジュリアンが所属するクラブの練習を無理やり休まされたりする。心優しいジュリアンは、反抗することなく、嫌なことがあっても自分の中にため込んでいくタイプの少年だった。言葉には出さないが、夕食を目の前にしてもフォークで突いているだけで、まったく口にしない。姉は、彼が夜になると泣いているのをいつも聞いているそうだ。父親は完全に無関心。「仕事が忙しい」の一点張りで、家族とまともに向き合おうとしていない。

ジュリアンにはアリスという好きな女の子がいた。彼女と会う予定の日には、もともとつるつるな顔を入念にシェービングして、気合十分だった。実際にアリスも、ジュリアンの頬を撫でながら喜んでくれていた。しかし、母親は違った。家に帰ると、母親がそばに来てジュリアンの頬に手を当て、気に入らないと言われるのだった。自分の息子に好きな女の子がいることが気に食わないのだった。アリスからジュリアンのもとへ届いた手紙を見つけると、グチャグチャにして捨ててしまうのだった。後になって、ごみ箱のなかで破り捨てられている自分あての手紙を発見したジュリアンは、母親に機嫌を直してもらおうと、アリスにあげるはずのチョコレートを、母親にプレゼントするのだった。しかしここでも逆効果。気に入ってもらえるどころか、また大声で叱られるのだった。

次に、これは少しあくどい演出だなと思ったが、ジュリアンの不憫な体験をもう一つ。家にいなさいという言いつけを破り、思い切って家出してきてパーティーに向かう場面がある。自転車を漕ぐジュリアンはいつになく楽しそうだった。会場でアリスと落ち合って、静かな部屋で良い感じに、アリスがジュリアンの上着のボタンをはずしていくシーンがある。(画像7)観ているこっちもドキドキだった。しかし、ボタンをはずし終わりロマンチックが最高潮に達したところで、友達があわてて入ってきて、「ジュリアン!お母さんが探してるよ!」である。その後のアリスとのことはあきらめるしかなく、必死で自転車を漕いで家に戻るジュリアン。道路で家族が運転する車とすれ違い、顔を真っ赤にした母親が下りてきて、道の真ん中でジュリアンを殴る。(画像8)

そして、ジュリアンが一番可哀そうだと思った場面。それはお風呂上がりの時である。タオルを巻いて出てきて、自分の部屋で着替えようとしていたのだが、そこにいきなり母親が入ってくる。驚いたジュリアンは、手で下半身を隠すのだが、「なぜ隠す必要があるの?手をどけなさい!」と命令される。母親に思いっきり見られている中で、しぶしぶ言うとおりにさせられるのだった。母親に裸を見られるなんて、思春期の男の子にとっては死にたいぐらい恥ずかしいことなのに。(画像3)

終盤に向かうにつれて、母親によるジュリアンへの暴力はエスカレートしていく。ジュリアンはいつも、家にいるときはちゃんとした服装をしているのだが、学校で友達といるときには、シャツをズボンから出して、髪をぼさぼさにして過ごしている。学校が終わり家に帰る途中で、また髪を整えてしゃきっとした格好に戻していた。ところがあるとき、母親が学校にやってきて、不良のような恰好をしているジュリアンは見つかってしまう。その姿を見るや否や、友達の前でジュリアンに平手打ちである。

さすがのジュリアンももう耐えきれなかった。あるときの放課後のジュリアンはいつもと違った。普段だったら、家に入る前に髪を正すのだが、ぼさぼさの髪のまま、あと友達から借りた拳銃も持って、母親に挑んでいく。(画像16)

2014/05/18

ブレイブクエスト/勇者の剣 (1989)

Sigurd Drakedreper (1989) ★★★

部屋にある未見のVHSの中からピックアップして鑑賞。邦題は「ブレイブクエスト 勇者の剣」となっていて、allcinemaで調べてみると、「BRAVEQUEST」が原題のようにあったが、実は原題は「Sigurd Drakedreper」で、英題は「The Littlest Viking」である。完全に埋もれてしまっている作品だからか不確かな情報しか載っていない。邦題も内容無視で都合よくつけたようなものである。

原題からも分かる通りバイキングの話である。バイキングとは、“8世紀から11世紀にかけて、スカンジナビア半島やデンマークを根拠地として、海上からヨーロッパ各地を侵攻した北方ゲルマン族の通称。”とのことなので、この映画は一応歴史ものに分類されるはずなのだが、ビデオのパッケージに書かれている説明を見てみると笑ってしまう。「剣と魔法のファンタジー」とか書かれているが魔法なんて誰も使っていないし、伝説のドラゴンを倒せ!というのもなんとなく芯をとらえていない感じである。

そんなことはどうでもいいとして、映画自体は楽しめた。シガード(Kristian Tonby)の父は族長であり、兄たちも含めて立派な戦士であったが、あるとき敵対する部族が攻めてきて、殺されてしまう。まだ子供であるシガードが一族を受け継ぐことになり、周りからは復讐を期待されるが、心優しいシガードは人を殺すことなんて出来なかった。

シガードは着ているものは立派なのだが、当の本人はとても情けない少年だった。剣の訓練の時も、へっぴり腰の構えで、ちょっと剣を振り上げられると腰を抜かしてしまう。魚を取ろうとしても、川に落っこちて流されてしまったりする。そんなピンチの時にいつも彼を助けてくれるのは、捕虜や奴隷といった虐げられている人々だった。そんなこともあって、シガードは復讐をするのではなく、みんなで仲良くやっていこうということで、父から受け継いだ伝説の剣を谷底に投げ捨てる。敵の部族も含めて、次の世代を担う子供たちの方が平和的で話が分かるのだった。久しぶりの正統派王子様映画だった。


2014/05/17

向かい風 (2011)

Des vents contraires (2011) ★★★

クレマンを演じたHugo Fernandes君がイケメンだったので鑑賞。クレマンもかっこいいし、父親のポールも凄くダンディ。役者陣から街の景色、部屋の中の家具家電といった一つ一つのアイテムがすべてスタイリィッシュ。洗練されていることが伝わってくる画づくり。

ポールとサラは夫婦。あるとき2人は喧嘩をし、その後突然サラは失踪してしまう。残された夫のポール、息子と娘のクレマン、マノンの3人は、都会を離れてポールの地元に引っ越しすることになる。鳴かず飛ばずの作家であるポールは、そこで自動車教習所の教官をやりながら、新しい土地や学校になじめないでいる子供たちの面倒を見る。

次から次へと悪いことが起こる。うじうじした人たちばかりで暗かったが、そんな中で子供たちとサッカーや壁のペンキ塗りをする場面では、楽しそうでほっこりする。刷毛を使ってお互いをペンキで汚すだけではおさまらず、ポールはバケツからペンキをがっぽりそのまま手で取って、クレマンの髪の毛にべったりの塗りつける。そこまでしなくても。(画像10)

劇中で「ブラックホールのそのあとは、すべてがクリアになる」という哲学的な言葉が出てくるが、話の内容もそれに沿っていて、最後には家族は何とか立ち直ったようだった。ちなみに、イケメンのクレマン君の次回作、「ママはレスリング・クイーン」が2014年7月19日に日本で公開されるとのこと。(ヒューマントラストシネマ有楽町 ほか)


2014/05/13

Måske ku' vi (1977)

Måske ku' vi (1977) ★★★★

脚本があの「Du er ikke alene」の監督、ラッセ・ニールセンと言うことで鑑賞。ただ今回は脚本のみで監督ではないからか、ホモ描写はなし。少年少女の現実逃避的なラブストーリーである。ちなみにラッセ・ニールセンはインタビューで、「好きなComing of age film(思春期映画)は?」と聞かれたときに、トリュフォーの「野性の少年」「大人は判ってくれない」や、「顔のない天使」「Streetwise」「春のめざめ」「I am Gabriel」、また日本映画の「誰も知らない」などを挙げている。

「Du er ikke alene」の主役の少年はキムと言ったが、今回の主役の少年もキムである。他のキャストの中にもなじみのある顔がいくつかあった。長髪で女の子みたいな顔をした男子が多い。そんな中でヒロインのマリアンは、女の子ではあるがきりっとした顔つきをしているので、性別がごちゃごちゃになっている感がある(?)

遊びたいのに、宿題があったり親がうるさかったりして、とにかく自由になりたい!という感じの思春期ものである。キム(Karl Wagner)と友達のオウルはつるんで街で騒ぎ、人に迷惑をかけている。映画館でブルース・リーのポスターを見れば、キャーキャー言いながらクンフーごっこである。パーティーに参加すれば、お酒を飲んで酔っ払い女の子に体を触られたりキスされたり。翌日に学校の更衣室で「昨日は指でやったぜ」とか男同士でニヤニヤ話している。

後半からの展開が面白くて、まさに自分にとっての理想的な生活だった。現実ではありえないかもしれないが、夢見心地でふわふわして観られる。キムがたまたま銀行に訪れたときに、銀行強盗が入ってきて、キムとそこにいた女の子のマリアンが車に乗せられて誘拐されるのである。そして山奥に連れて行かれるのだが、たどり着いた場所が、銀行強盗してきた後に向かうところとは考えられない、夏休みに過ごしに行く別荘のようなところなのだ。キムとマリアンは捕まってはいるのだが、犯人たちは好意的で、ろうそくが立てられている良い感じのテーブルで一緒にディナーである。そのあとはお酒を飲みながら、盗んできた本物の紙幣を使ってボードゲームをし、さらにキムとマリアンは、同じ部屋で寝ているので、お互いくっついていくというパターンである。

それでも2人は犯人たちの隙をついて逃げ出してくる。どこに向かっているのかも分からないでとにかく走っていると、これまたおしゃれな別荘を見つけるのだった。そこにはシャワーもついていて、食べ物もワインも置いてあり、2人でしばらくそこで過ごすことにする。2人だけの空間、裸になってロマンチックにいちゃいちゃし始める。別の日になると、別荘の持ち主の息子とその友達たちが現れ、5人の少年少女は学校にも行かず、森でキノコを採ったり、ギターを弾いたり、クンフーごっこをしたりして自由気ままな生活を送る。街に買い出しに行く時も、誘拐された子供だということがばれて、連れ戻されないように、フードを深くかぶっている。雑貨屋で誘拐された自分たちが一面に載っている新聞を見つけて喜んでいる。

パトカーがキムたちの過ごしている山まで捜索に来たときには、ようやく助けられるというのに、彼らにとっては逆に拘束されに行くようなものだった。街に戻ってきて母親がうれしそうにキムに抱きつくが、彼は無表情のまま。ラストでは、マリアンと引き裂かれ、「大人は判ってくれない」的な、やるせない顔が映ったところでカメラが止まり、アップになっていくという終わり方だった。




ジョー (2013) <未>

Joe (2013) ★★★★

MUD -マッド-」に出演したTye Sheridan君の次の映画出演作。ニコラス・ケイジ扮するジョーと、少年ギャリー(Tye Sheridan)の友情もの。めちゃくちゃな家庭で苦しんでいる少年の姿や、粗暴な男と少年の絆、あるところで毒蛇が現れたりするところなど、前作の「MUD -マッド-」と似ている部分が多い。また、「グラン・トリノ」を参考にしているのか、咳き込んでいて末期を予感させる一人の男が、少年のために自らを犠牲にし、その後少年がその男の車と連れていた犬を引き継ぐあたりなどは同じ。

辛い環境でもひたむきに頑張っている少年を演じさせるならTye Sheridan君、というように彼はキャラクターを確立させたように思う。そんなに顔が綺麗なタイプではないが、まだまだ若いながらいろんな苦楽を経験してきたような表情、笑顔は魅力的だと思う。劇中でギャリーは女の落とし方なるものをジョーに教えられるが、その内容はというと、さわやかな笑顔を振りまけ、とかなんかではなく、辛そうに、でも頑張って笑うような表情を作れ、というものである。「この笑顔で多くの女と寝てきた」と誇らしげであったが、これはニコラス・ケイジのあの独特なスマイルを皮肉ったギャグだったら面白い。

舞台となっているのは、人間関係がドロドロしていて、嫌な雰囲気で満ちている田舎町である。いま思いつく限りでは、今公開されているヒュー・ジャックマンの「プリズナーズ」、これから日本でも公開されるかもしれないシルベスタ・スタローン脚本の「Homefront」のあの感じ。ギャリーの父親は、禿げあがっていて白髪の長髪。浮浪者のような見てくれで、父親と言うよりはじいさん。どうしようもない奴で、息子が働いてもらってきた金を殴って奪い取るような父親である。そんな状況でも、家族は一番大切にしなければならないものだと教えられてきて、自分でもそう信じているギャリーは、ジョーのところで仕事を見つけ、「親父も一緒に働けるかい」と頼み、飲んだくれの父親をどうにか更生させようと健気である。ジョーはそんなギャリー様子を見て、これでは駄目だと彼のことを気にかけるようになる。ギャリーにとって頼りになる存在はジョーだけだったが、彼は前科を持っていて警察に盾突き、他人とけんかになるとぶちのめし、その報復で左肩をライフルで撃ち抜かれたり、生傷の絶えない男であった。

ジョーたちのやっている仕事が不思議なものだった。森の中で、謎の液体を放出する斧のようなものを振りおろし、樹をぐちゃぐちゃやっているのである。まるで樹の傷ついた部分から血でも噴き出しているかのようなグロテスクな描写だった。実はその液体は何かしらの毒で、それを浸透させることで必要のない樹を枯らしているのだった。

2014/04/16

バスタード (2011) <未>

Bastard (2011) ★★★

ギャラリーにも載せているマルクス・クロイヤー君の出演映画。「Wer früher stirbt, ist länger tot」の頃からは成長して声変わりもしている。顔はまだ幼くてきれいだが、脱いだ時の体を見ると、少しおっさん体型なような気もする(画像2)。役柄上、非常に怖くて性格がねじ曲がっている少年を演じているのが少し残念。クールなスケーター少年だった。

監禁されている男の子をめぐるサスペンス。「ぼくは怖くない」では大人たちに閉じ込められている男の子をミケーレ少年が救い出すという話だったが、逆にこの映画の場合は、14歳の男の子(Markus Krojer)が、同じサッカークラブに所属している友達を監禁してしまう。どうしてそんなことになっているのかは最後までわからず、ある女の子と一緒になって、ニコラスの足を鎖でつないで、スマホで動画をとったりして単純にいじめているように見える。その動画が学校中に出回り、犯人は誰だということで警察が動き出す。

レオンとマイナートはどうしてあんなに鬼畜な少年少女になってしまったのか。結局のところは彼らか育った境遇が原因で、愛情に飢えていたからだった。レオンは私生児で、養子にとられたのだった。夕食時でも全く話をせず、母親が気を使って話しかけてきたときには、フォークを投げつける。警察に事情聴取されているときも、適当なことばかり口にして、早く帰らせろだの言う。女の子の方のマイナートも、母親は水商売をしていて、酔っぱらって床に倒れこんでいたり、男と一緒にベッドをきしきしと鳴らしたりしている。マイナートがずっとイヤホンで音楽を聴いているのもその音を聞きたくないからだった。

レオンがニコラスを監禁した目的は、ニコラスの家庭に溶け込みたいがためだった。「ニコラスの居場所を教えてあげるから」という口実で、悪魔でも見るような表情をしているニコラスの両親と、女の警察官一人、それからマイナート、あと家の外では見張りが巡回している中でも、「パパ、ママ」と呼び、普通の家族の一員であるかのように振る舞う。最後に明らかになるが、実はニコラスの母親こそ、本当のレオンの母親だったのだ。事情があって、レオンは捨てられたのだった。普通の家庭で過ごしたいという実は純粋な思いが、犯罪に発展してしまったのである。「Chizkeik」のアリョーシャ少年のパターンである。

結果的にあんまり好きになれない作品だった。脚本にも粗さが目立つ。いくら心に傷を負った子供たちとはいっても、警察も含めてまわりの大人たちは、2人の言うことを簡単に聞き入れすぎである。挙句の果てに警察はあっさりと、たかが14歳の女の子に拳銃を盗られて、閉じ込められているニコラスは、銃口を向けられて、殺すと脅され、マイナートに至っては、最期まで誰からも愛されていなかったことに気付き、自殺してしまうという後味の悪いものである。


2014/04/12

ア・リトル・クローサー (2011) <未>

A Little Closer (2011) ★★★

70分程度のコンパクトな作品。BGMが挿入されておらず、人物同士の会話の声は聞こえているが、画面に映っている人物の口は動いていない、というような場面が何度かあったりして、詩的な感じに仕上げているのだと思う。2人の兄弟、マーク(Parker Lutz)とスティーブン(Eric Baskerville)とその母親。3人とも愛情に飢えている感じで、さびしそうだった。

母親は何気なく、町内会の集まりのような質素なパーティーに出向き、一人でドリンクを飲みながら、すました様子でいる。まったく何も起こらない日があったり、興味のないじいさんに声をかけられる日もある。ある男と紙コップに注がれたビールで乾杯をした日には、その男を自宅に招いてセックスをする。

思春期の子供たちもそれぞれで忙しい。兄のマークは学校には通っていない。自動車のディーラーのようなところで働きつつ、ある女の子とセックスをするために、母親の化粧台からとってきた指輪をプレゼントしたり、まずはフェラチオをしてもらったり、お互いにぎこちなく親密な関係になろうとしている。弟のスティーブンは、担任の先生のことが気になって、授業中にぼんやりと先生のおっぱいやお尻を眺めている。友達がエロ本を持ってきていたりして、家に帰って洗面台の前でオナニーに挑戦している。

映画の冒頭では、マークが木材にドリルで穴をあけたりして、家具を組み立てていると、弟のスティーブンが、かまってほしい様子で、しつこく兄に近づいてくる。ドリルが木材を貫通すると、その先にはスティーブンの顔面があり、ドリルが彼の目をかすめる。悲鳴が上がり、母親が駆けつけてきて、急いで病院に向かう。失明は免れたものの、それのせいでスティーブンは右目にずっと眼帯をつけている。学校では馬鹿にされたり、海賊みたいでかっこいいと言われたりする。

思春期の男の子は、時にはひどいやり方で先生たちを困らせる。この映画を観ていて、そういえば自分は先生に腹を立てたことはほとんどなかったなと思い出した。たとえ怒られても、不良っぽくなっている自分、ということでちょっとうれしかったぐらいだった。この映画でも、スティーブンの周りは、担任のことが気に入らず、あるとき、担任の女の先生の車にスプレーで卑猥な言葉などを落書きしていた。誘いを断れず、一緒に実行してしまっていたスティーブンだったが、担任の先生のことは、おっぱいやお尻を眺めているぐらい好きだったので、悪ガキたちが走り去っていった後、自分のシャツを脱いで、車の落書きを一生懸命拭っていた。


2014/03/28

ザ・ドゥ=デカ=ペンタスロン (2012)

The Do-Deca-Pentathlon(2012) ★★★★

二か月ぶりの更新は、ロン毛少年が登場する映画です。兄のマーク、弟のジェレミーのひねくれ者兄弟が、卓球やビリヤードで競い合い、どちらが強いか勝負する話。メタボなお腹を揺らしながら意地になってマラソンしたりプールを泳いだりする兄弟。どちらを応援するでもなく、なんとなく様子を見ているハンター少年(Reid Williams)。

男の兄弟と言うのは、この映画の二人のように、いがみ合ってることが多いと思う。それは大人になっても一緒なのか。子供のように、何の意味もない争いを続けている。兄のマークの方は、奥さんもいて息子のハンターもいて、一見良好な家族を築いている。弟のジェレミーは、定職に就かず、ポーカーで稼いだ金で食っている。お互いがお互いの生活を羨ましがっているのだ。マークからしてみれば、自由気ままに生活している弟のことがうらやましい。弟のジェレミーは、兄のように安定した生活を望んでいる。

兄のマークは、癇癪持ちだった。精神安定剤のようなものを飲みながら、気が狂いそうな日々をなんとか過ごしてきた。ところが、弟のジェレミーが実家にやってきてからというもの、少年時代に競い合い、中途半端に終わっていたドゥ=デカ(二人だけのオリンピックのようなもの)の決着をつけることになり、片鱗を見せ始める。弟のジェレミーは兄のことを「あいつは羊の皮を被ったオオカミだ」と言っていた。マークは奥さんから家で過ごすように言われても、ジョギングに行ってくるだとか適当な理由をつけて、ジェレミーの前に現れ、やれ走り幅跳びだ、やれゲートボールだと、顔を真っ赤にしながら挑んでくる。ときどき暴れだす父を、切ない表情で眺めるハンター。

最終的には、ガチンコの殴り合いに。表通りに出て、大人げなく意地の張り合いである。ところが今回も勝負は曖昧に。とうとう別れの日となると、ちょっとだけ二人の間に絆のようなものが生まれる。どうしようもないおっさん連中を見ていながら、純粋な少年二人を見ていたようだった。

2014/01/27

MUD -マッド- (2012)

Mud (2012) ★★★★★

チラシなどでは現代版「スタンド・バイ・ミー」と言われているようだった。2人の少年、エリスとネック、そして指名手配犯のマッドとのひと夏の出来事。「未来を生きる君たちへ」という映画に似ている。淡々と進んでいくが、注意深く見ていないと登場人物の気持ちの変化を見逃してしまうような映画。

エリスとネックの二人は、少し離れた小島で、身を隠しているマッドという男と出会う。人を殺して逃亡しているのだった。いろいろ話をしているうちに、マッドはエリスに向かって「昔の俺を見ているみたいだ」という。

マッドとエリスだけが、まっすぐに愛と向き合っていた。マッドの殺人の動機は、大好きなジュニパーを助けるためだった。エリスも、学校の気になる女の子が男に言い寄られていたら、その男に向かって口よりもまず手が出る。そんな二人はお互いに共通するものを感じて、指名手配されているにもかかわらず、協力し合ったのだと思う。

ただ、マッドとエリス以外の男たちは、愛に対して少し淡泊な見方をしている。自分の気持ちに嘘をつかず突き進んでいくエリスを見て、はっきりとは言わないが、遠回しにエリスを諭していた。そんな言葉には耳を傾けないエリスだったが、実際に女を愛した男たちは不幸になっているようだった。エリスの両親も離婚寸前。そんな頼れるものがないときに支えになったのが、愛のために手まで汚したマッドだった。エリスは人を本気で愛したいと願う。メイパールと付き合うことになり、お互いに楽しそうにしているのだが、結局メイパールにとって、エリスはお遊び相手だった。別の男といるメイパールにひどいことを言われた時は、さすがに強気なエリスでも相当ショックを受ける。胸が痛くなるシーンだった。

マッドに関してもそうで、ジュニパーに会いたいという一心で、空腹を我慢しながら身を隠し、脱出のためのボートの修理やらをする。ジュニパーはマッドが献身的に尽くしてきた女である。エリスとネックの少年2人も、マッドに応えて危険を顧みずジュニパーに手紙を渡しに行ったりする。しっかり逃亡の計画もジュニパーに伝えて、準備万全で臨んだ決行当日、ジュニパーが来ない。どこかのバーで別の男と一緒にいるのだった。

そのことを知ったマッドは、子供の頃から尽くしてきた彼女をあきらめる。一人でどこかに行ってしまおうと計画を変更した。そんなマッドを見て、エリスは「嘘つき!」とマッドを罵倒する。エリスにとって、マッドは人を愛し続けることができる証明みたいな存在だった。マッドにだけは裏切られたくなかったのだろう。

結局、一番思ったことは、女心はわからないということ。あと、マッドとトムの父子が浮世離れしているというか、少年たちに大事なことを残して、2人とも消えてしまうあたりなんか、神様のような存在だなと思った。砂浜についた足跡が十字架の形をしているところなんかも。

2014/01/25

ザ・フリーマン (2013) <未>

Cyanure (2013) ★★★★

原題の意味は「青酸カリ」。アシール(Alexandre Etzlinger)の目線で、家族の再生を描いている。14歳になったアシールは父親のジョーが刑務所から出所してくるのを待ち望んでいた。会ったことのないジョーに対していろんな期待を抱いていた。ところが、出所してきたジョーは、アシールに冷たかった。「自分の息子かどうかも分からない」と言われる。

アシールの母親、ペネロピは、粗暴なジョーとは縁を切りたいと考えていて、バイト先のチーフといい関係を築いていた。アシールにとってはそれが気に食わず、ジョーに成りすまして、母親にラブレターを書いたりし、二人をくっつけようとする。あきらめずに幸せを掴もうとするアシールだった。母親には内緒で、夜中に布団を持って、ジョーのところへ行ったりする。次第に、アシールとジョーは仲良くなっていく。

一方、母親のペネロピは、ジョーのことをなかなか受け入れない。バイト先のチーフといちゃいちゃして、ジョーのことを考えないようにしている。ただ、ある夜は、ドラッグを吸いながら、過去にジョーとベッドを共にしたことなど思い浮かべている。どうしてもジョーのことが気になってしまうのだった。

セックスシーンでヘビメタが流れたり、さらっとおっぱいやちんこが映っていたり、笑ってしまう。アシールの中二病的な妄想も面白かった。銃を扱っていて暴発し目をけがした時は、数日で治るようなけがなのに、アシールの中では左右で瞳の色が違う、特別な男に生まれ変わったようだった。妄想の中では、そんな左右で色の違う目をして、建物を爆破させたりする。

結局、ジョーはまた刑務所に入れられる。ずっと一緒にいようと約束していたのに、そんなのことになってしまって、アシールはやつれていく。刑務所に面会しに行くも、ジョーのほうも参っている。そして、今度来るときは、青酸カリを持ってきてくれと、ジョーに頼まれる。

後日アシールは、手作りクッキーの中に、頼まれた青酸カリを入れて持っていく。ジョーはそのクッキーを口にする。時間が来て、面会室を出るアシールだったが、その場でポケットからもう一つ用意していた毒入りのクッキーを取り出して食べる。二人とも病院に運ばれる…。
Alexandre Etzlinger

2014/01/19

エンダーのゲーム (2013)

Ender's Game (2013) ★★★★

日本での公開も遅めだし、「エンダーのゲーム」というタイトルにもいまいち惹かれなかったし、普通ならスルーするところだが、エイサ君が出演しているということで観てきた。服の上からでもわかるほっそりした体型で声変わりも済み、中学生らしくなっていた。

映画館で見かけたポスターに「お父さんは<サード>の僕なんて欲しくなかったんだ」とキャッチフレーズみたいなのが付けられていたが、内容を観てみると、お父さんとのやりとりなんてほとんどないし、欲しくなかったどころか、宇宙船のメンバーみんながエンダー(Asa Butterfield)を頼りにしている。カエサル、ナポレオンのようになるべき男だと期待されていた。「エヴァンゲリオン」のような雰囲気ですよということで、日本では売り込んでいるのだと思う。別にいいのだが、内容からはずれてまでそれをするのかと思ってがっかり。

簡単に言うと、エイリアンVS人類という物語で、来るべき大戦に向けて数十人の選ばれた子供たちが、非情な司令官のもと、戦闘シミュレーションを重ねていく。エンダーは、天才的な戦術でチームを指揮するし、いざマンツーマンの肉弾戦となっても、絶対に負けない。エンダーが強くなっていく過程もあったら良かったなと思った。

自分的に一番良かったシーンは、チーム対抗バトルの時の、無重力空間でエンダーがくるっと宙返りをしながら、あたりに浮遊している光線銃をうまいことキャッチし、二丁拳銃でバンバン撃つ場面。観ていて気持ちよかった。「キックアス」のヒットガールが、敵のアジトに乗り込んで行ったときの、空中で二丁拳銃を装填するあのシーンのような気持ちよさ。今回は無重力なので、あの時のような違和感もなかった。

映画全体を通して、盛り上がれる場面が今一つないなと思った。エンダーが葛藤や悩みなど抱えていてずっと暗い。最近よくある悩めるヒーロー。あと、ネタバレになるが、最後の戦闘にしても、こっちはシミュレーションだと思って観ていて、むしろ後で起こる実戦のほうに期待している。しかし練習だと思って観ていた戦いが、実は本当にやっていたことだったと明かされて、肩すかしを食らう。「あれ、おわっちゃったのか」と言う感じ。戦争に勝っても盛り上がることはなく、エンダーは、知らないうちに相手を全滅させてしまったことを悔いて涙を流す。結局、エイリアンたちを倒して目的達成したはずなのに、別の惑星で、また1からエイリアンを繁栄させようとするところで終わっている。ハリソン・フォードが上官役で出ていたが、ずっと渋い顔をしているだけだった。