2014/07/21

僕はもうすぐ十一歳になる。 (2014)

僕はもうすぐ十一歳になる。 (2014) ★★★

新宿のK's cinemaで一週間しか上映されないらしいので、観たい方は早めに。

十歳の男の子、翔吾(濱田響己)は昆虫が大好き。学校の友達と遊ぶよりも、一人で昆虫を追いかけているほうが楽しい。海外出張の多いお父さんになかなか会えないからといって、ひねくれている様子もない。話し方とか、表情とか、とてもクールな男の子だった。上映後の舞台挨拶で、翔吾を演じた濱田響己君を目の前で見たが、映画と同じように、クールな振る舞いで、目がきりっとしていた。

自分は子供の時、昆虫採集にはまったことはないのだが、何かを収集するということで、共通する思い出は多い。例えば、カードゲームなど、どのモンスターの攻撃力がどれだけ高くて、このカードにはこういった効果があるなど、すべて覚えていた。何千枚もあるカードの中から、母親に一枚選んでもらって、それについて説明してみせると、すごい記憶力だと驚いていた。興味のある事なら覚えられるのだった。これが英単語とかだったら、成績も良かったのに。翔吾も、助手である女の子が捕まえた昆虫の名を言い当て、昆虫博士っぷりを披露する。

この映画のテーマは死生観。昆虫を捕まえては殺し、標本にしていく翔吾が、父親の考え方や祖母の死に触れていくことで、命というものを意識し始める。最終的に、羽が破れて見た目の悪い蛾をごみ箱に捨てていた彼が、綺麗なテントウムシを捕まえても、空に逃がしてやるぐらいには、生物の命について考え始めたのだった。

全く予備知識がなかったので映画のテーマが最後まで分からず、どうなるのだろうと期待して観ることが出来た。全編を通して、何か怖いなと思ったのは自分だけではないはず。それらの原因は、翔吾の心が読めない淡々とした受け答え、お父さんの、ブータンで学んできたという生まれ変わりの意味深な言葉、ときどき見せる原因不明の寂しそうな表情、薄暗い照明の当たり方など、だろうか。特に怖さが最高潮だったのは、翔吾がおばあちゃんの遺骨を盗んできたとき。何をするつもりなのか予測できず、翔吾のクールさがさらに不気味さを煽った。家に帰って一人で部屋に籠り、こっそり盗んできたおばあちゃんの遺骨を顕微鏡でのぞく。そしてぼそっと「おばあちゃん…」とつぶやく。これだけ見ると、「この少年、何かがおかしい」と言ったフレーズのつけられていそうな、ホラー映画ぽく見えなくもない。標本にされている昆虫の隣に、おばあちゃんの遺骨も一緒に並べて、コレクションの一つにしてしまうのかと思った。そんなサイコな少年が出てくるホラー映画も少なくはない。そう展開しても面白かったかも(?)

もちろんそんな展開にはならず、おばあちゃんの遺骨は彼なりに供養して、川に流すのである。翔吾は命の尊さを意識しながら、これからも大好きな昆虫採集は続けていくべきだと思う。


2014/07/15

ぼくの小さな恋人たち (1974)

Mes petites amoureuses (1974) ★★★★★

2年ほど前にレンタルVHSで一度見て、ずっと記憶に残っていたこの映画。いつかDVDを買っておこうと思っていて、ついに購入(中古で約8000円)。なぜこれほど気に入ったのかわからないが、間違いなく主役のマルタン・ロエブの存在は大きいだろう。

少し影のある少年、ダニエル(Martin Loeb)を中心に、ほんとに何も起こらない日常風景が淡々と描かれているだけである。特に、人物が歩くシーンが多くて、本編の3割はただ歩いているシーンだけを見せられたのではないかと思われるほど。それだけ単調で、どうしてこのシーンにこれだけの時間をかけている?と間延びしているようにも思われる。

ただ、そんな場面の中に、なにか美しさみたいなものがある。もちろん、主役のダニエルもかっこいいのだが、彼を取り巻く人間関係が、どこか冷めていて、静かで、ほとんどキャラクター性が分からず、普通の映画でこれをやってしまったら、面白味の何もない駄作になってしまうだろう。ただ、この映画の人物たちは、それでもうまく存在感を出しているように思う。無駄口を一切たたかずに、それでも横一列になって街を歩いていく様子は、ファッションショーか何かのウォーキングを見ているよう。

ダニエルは、ロボットのように、何を考えているのか不明な少年である。頭脳明晰で、試験の成績がよく、新聞に載るほど。しかし「何がしたいの?」と聞かれても、「別に何もない」といい、「卒業したら、僕はお母さんの所へいくらしい」と、自分のこれからの生活なのにもかかわらず「らしい」で片づけてしまっている。彼の父親はすでに亡くなっているか、どこかへ消えてしまっていて、母親は、別の国の男と不倫の関係にあった。中学を卒業すると同時に、近所の幼馴染とお別れをし、母親と男と町に移り、3人で暮らすことになる。収入がなく、せっかく奨学金で高校に通えるのにもかかわらず、町工場で自転車の整備などをする仕事に就かされる。それでも、ダニエルの様子を見ていると、高校に行けないことを悔しがっている様子はあまりない。

ほんとに、どこかの国の、知らない町の、なんでもない情景を見ているだけなのだが、謎の違和感のようなものが画面から伝わってきて、ぼうっと眺めているだけでも心地よい。それこそ、人物たちの歩く様子であったり、ダニエルの、我関せずの振る舞いであったり、一緒にいる仲間のよそよそしさが、その違和感を原因なのではないかと思う。人間的な交流が、ダニエルの女の子へ対する好奇心以外に見られない。

新しい町に引っ越してからのダニエルには、何もなかった。母親は1日中仕事だし、おじさんは畑の仕事をしているとは言っているが、奥さんがいて、どこで何をしているのかわからない。高校へ通って、出来の良い頭を発揮する場もない。そんなダニエルが唯一意識したことが、町の女の子なのであった。後半になるにつれて、ダニエルの関心は女の子で一杯になっていくようだった。男女の出会いの場として知られる並木道をふらふらしたり、なんとなくベンチに座って、目の前のカップルがキスをしているのを眺めている。映画館の薄暗い中で、キスをしている男女を見かけたら、ダニエルも近くに座っている女の子の頭に顔を近づける。そして、思い切ってキスを試してみるのだった。修理工として店の番をしているときも、街行く女性たちを眺め、この時間帯にはあの女性が来る、毎回違う男と一緒にいる女性がいる、という感じで町の女性たちを観察したおす。

終盤になると、青年たち5人ぐらいが一緒になって、全力で女の子をナンパしに行く流れになってくる。ダニエルも、そんな年上の仲間たちと一緒になり、異常なほどにすました様子で、カフェのテラスから女の子を眺めているのだった。慣れないたばこをふかし、足を組んで、男たち全員が同じ視線を女の子たちにおくるのだった。

そして、いよいよダニエルが1人の女の子を捕まえるラストシーン!これまでの違和感が最高潮に達して、不気味過ぎるほどにひたすら歩く!草木が生い茂る中に一本通った長い道を、ダニエルともう一人の男が一緒になって、前の二人の女の子を追いかけて行くのだ。先頭を行く二人の女の子、追いかけるダニエルと隣のもう一人の男、そして抜け駆けを許した残りの男たち三組による、女の子争奪徒競走である。少しぐらい早歩きになっていいものだが、全員が決して焦ることなく、あくまで澄ました様子で道を進んでいく。 それで、ようやくダニエルが女の子に追いついて、唇へのキスを勝ち取るのだった。その瞬間の二人を、ぐるっと回るように映すカメラ。風にそよぎながら、日に照らされ金色に輝く草木。そして、あきらめた残りの男たちがUターンをして、来た道を戻っていく様子。完璧!

ただ、そのまま恋が実るということにはならず、おそらくダニエルと女の子は、その後しばらく会うことはなかっただろう。その女の子とキスをした段階でのダニエルは、まだまだ幼かった。しかし、夏休みに入り、生まれ育った町に戻ってきた彼は、確実に成長していた。女の子を追いかけた新しい街での仲間たちは、ダニエルよりも年上で背が高くて、ダニエルはいろいろと学ぶ側だった。ところが、もともと居た町に戻ってきて、幼馴染たちと再会すると、彼らはダニエルよりも背が低く、ほんの子供のように見えた。そしてダニエルは躊躇なく、一人の女の子を後ろから抱きしめるのだった。そういうところからも、彼の心持の変化が見て取れる。


リアリティのダンス (2013)

La danza de la realidad (2013) ★★★★★

ホドロフスキー監督23年ぶりの新作。こんなにスパンが空いたのは単純にお金が溜まらなかったからだそう。そして現在、次回作の「フアン・ソロ」を製作中。

主役のブロンティス・ホドロフスキーは、1970年制作「エル・トポ」で、裸で馬にまたがっていたあの男の子。今回も全裸になっている。父親の映画に出るたびに、チ○コを披露させられている。完成することなく終わった「ホドロフスキーのDUNE」の時は、武道家の先生のもとで数年間訓練を受けさせられた挙句、その成果を披露する場が突然失われてしまった。映画のためなら片腕を失ってもいいという父親に振り回されている。

ホドロフスキー自身の幼少期も、権威的な父親の言うことは絶対で、逆らうことが出来なかったことが映画を観ているとわかる。「リアリティのダンス」は、ホドロフスキー自身の辛い少年時代を、慰めの意味も込めて作られた。劇中でホドロフスキーは、長髪の金髪の少年として登場してくる。父はそんな彼のことが気に入らず、オカマだとか言って、幼児虐待ではないかというぐらいに厳しく接する。バコバコと殴り、「もっと叩いてください!」と言わせて、歯が折れてしまうまでやめない。そのあと彼を歯医者に連れて行って治療をするのだが、父親は医者に「麻酔なしで治療してください(あとでフランス産のワインを贈るから)」と言って、医者と父親とで、ホドロフスキー少年をいじめる。印象的だったのは、足の裏くすぐり拷問である。「男なら絶対笑うな!」と、ホドロフスキーを裸にし、鳥の羽で足とか脇とか鼻をこちょこちょするのである。何の意味があったのか。

前半はほとんど、苦しむホドロフスキー少年を観ていた感がある。斬新で面白いと思った場面は、少年たちによる集団オナニーの場面。学校の授業か何かで海岸に来ていた生徒たちの中の、ある男の子が「シコシコしようぜ」と周りの子たちを誘い、人目のつかないところに移動する。ホドロフスキー少年もついていく。それで10人ぐらいでシコシコし始めるのだが、直接的には映っていなかった。そのかわり一人一人が、チ○コの形を再現した木の棒を持って、それをこすり始めるのである。みんなシンプルな形をした木の棒なのだが、ホドロフスキーの棒だけ、先の方が膨らんでいた。それを見た周りの少年たちは「キノコだ!」と大笑いし、深く傷ついたホドロフスキーは海に身投げ自殺をしようとする。実際に彼は割礼をされていたので、先が膨らんだ木の棒だったというわけだった。

少年期のホドロフスキーを演じたのは、イェレミアス・ハースコヴィッツ(Jeremias Herskovits)。まつ毛が長くて唇が赤くて、金色のかつらを被り、鮮やかな水色の服を着た彼は、人形のように可愛かった。ところで、ホドロフスキー監督の過去の作品は、汚い画質のものしか観たことがなく、その映像の粗さと、いわゆるカルトと呼ばれるぶっとんだ内容とが良い感じにマッチしていて、そこが気に入っていたということもあった。今回綺麗な映像になってくるとどうだろうかと思っていたが、そんなふうに人形のように綺麗な男の子を観られたのでとても満足。カラフルな街並み、真新しい派手やかな衣装、それらが鮮明な映像で観られることで、現実離れした不思議な世界観を生み出していて良かったと思う。

笑える場面も多い。ホドロフスキーの母であるサラは、セリフをすべて高い声で歌うように話す。実際にホドロフスキーの母親はオペラ歌手だったらしい。旦那とセックスをしているときの喘ぎ声も、高い声で、合唱する前の音程合わせのような感じで、ハァハァハァー♪と繰り返し言うので、笑わずにはいられなかった。サラは何度も服を脱ぎ、巨大な肉体とおっぱいを惜しみなくさらしている。

そして、最も衝撃的な場面であろう、サラの放尿のシーン。ペストに侵されて、肌もただれた状態になっている旦那に、おしっこをかけるのである。なんと次の瞬間には、旦那の体は元通りに回復しているのだ。購入したパンフレットに、その場面についてホドロフスキーが言及している。多くの宗教の中で尿には人を癒す力があり、神に祈りをささげ、川のように放尿することは、彼女の一番大きな愛なのだとか。

とにかく、いくら語っても意味のないぐらい映像から受けるインパクトが大きい。サラやハイメの股間にはぼかしが入っているのだが、なぜか最後だけハイメの股間にぼかしが入っていなかった。ホドロフスキーの身内が3人出演していて、あくまで自分のために、自分の人生を見つめなおして作られたような映画。最後まで見終わった時にはなぜだが癒された。