2014/05/24

恋のレディ&レディ? (1992)

Ladybugs (1992) ★★★

最弱女子サッカーチームを優勝させるために、男の子のマシュー(Jonathan Brandis)が女装をして試合に紛れ込むという話。劇場公開時のタイトルは「恋のレディ&レディ?」で、ソフト化されたときに「恋のキック・オフ/警告(イエローカード)!女装プレイヤーは出場停止!」と変わっている。

万年ヒラ社員のチェスターは、社長の娘が所属している女子サッカーチーム「レディバグ」の監督を任される。今シーズン、優勝まで導くことが出来たら出世させてもらえるという条件付きだった。サッカーのことなど全く知らなかったチェスターはどうすればいいか分からず、付き合っている彼女の息子であるマシューをチームに入れてしまおうと考えた。女子のチームでプレーするなんて絶対嫌だというマシューだったが、メンバーの女の子に一目ぼれしてしまい、参加することを決める。運動神経抜群のマシューが入ったことで、チームは見事に勝ち進んでいく。

面白かったのは、チェスターとマシューが女物の洋服屋さんに出かけていく場面。男の子に女の子の服を買おうとしている様子を店員さんは変な目でみる。そして2人して試着室に入り、何やらごそごそしている。「そっとやって!痛いよ!」と言うマシュー、「今はキツいがじきにゆるくなってくるから我慢しろ」とチェスター。カーテンの向こうでおじさんが少年に女装させていやらしいことをしているように見せる思わせぶりなシーンだった。

あと、結局マシューが男の子だったということがばれて、落ち込んだチェスターがバーで飲み明かすというシーン。悩みがあったら打ち明けた方が楽になるぞと、バーテンダーが言う。それを受けてチェスターは正直に、「彼女の息子に女装させてプレーしたんだ」と言いうと、そっちの意味に取られてしまい、店から締め出されるのだった。

話しの設定では女装しているのはマシューだけだが、試合の様子を撮影するときには、結構男の子が女装してプレーしていたのではないかと思う。太った女の子がドリブルをするのだが、足元のアップになった時だけ、すらっとした足になって見事なボールさばき。また女の子の全身のショットになると、今みたいな細かなステップは踏めないだろというような太い脚に戻っている。オーバーヘッドキックでシュートを決める場面も、あんなこと女の子が出来るだろうか。実はみんなカツラをかぶった男の子だったのかもしれない。


2014/05/19

嵐の前 (2000)

Före stormen (2000) ★★★

主役のレオ少年(Emil Odepark)が、裸で女子更衣室に閉じ込められるというシーンは、以前にどこかのサイトか、YouTubeなどで観たことがあった。ようやく本編も鑑賞。日常のちょっとした学校生活が題材なのかと思っていたら、どんどん規模がワールドワイドになってきて驚く。身近な殺人事件から、中東の戦争問題まで。

学校で、ダンという悪がきに苛められているレオは、警官である母親の拳銃を盗んできて、あるときダンを撃ってしまう。ここからは、ガス・ヴァン・サント監督の「パラノイドパーク」的なドキドキ感。誰にも見られてない…もしかしたら上手く逃げられるかも…街の至る所では警官が見張っている。その日以降、レオの日常は恐怖でしかなくなる。

確かに、レオはダンからひどいいじめを受けていた。ダンの自転車を毎日磨いてピカピカにしておかなければならないし、学校ですれ違うたびに小馬鹿にされるし、あるときは、裸にさせられて女子更衣室に閉じ込められる。ただ、拳銃みたいな危ないものが身近で手に入ってしまったことがいけなかった。森の中で、レオがダンに銃を突きつけたときには、一気に立場が逆転。何でもしますから助けてくださいと、レオに懇願するダン。ただレオも、自分が拳銃を構えていることにびびってしまっていて、いつ引き金を引いてもおかしくない状況だった。案の定、ダンがちょっと迫ってきたら、銃声がとどろいて、ダンは倒れこむ。

ここからのレオの、人を撃ってしまった直後のどうしたら良いか分からない感じが良かった。一度は逃げ出そうとするのだが、やっぱり立ち止まって、倒れているダンのそばに戻ってきて、とりあえず、カツアゲされたお金を取り返すのだった。

詳しい内容についてはお世話になっているサイトの「ノースエンド先生の映画講座」に載っているのでそちらを参考にしてもらいたい。http://northcinema.web.fc2.com/northend/northend-f00-1.html
例の女子更衣室の場面で、レオのあれが一瞬映るが、ちょうどもじゃもじゃしかけている時期なので恥ずかしかったと思う…。

私の息子 (2006)

Mon fils à moi (2006) ★★★★

主役のジュリアンを演じたVictor Sévaux君が可愛かったので鑑賞。そんな理由で観たので、まさかの衝撃的な内容にびっくり。母親に操り人形のように扱われて、ちょっと逆らっただけでぼこぼこ殴られ、蹴られるジュリアン…。

ジュリアンは、大学教授である父親を持ち、いいところに住んでいるお坊ちゃま少年だった。しかし、彼の母親がどうもおかしかった。息子に対する愛情が行き過ぎておかしなことになっているのだと思う。自分の息子を思い通りにしておきたくてノイローゼ気味である。ジュリアンが見たことのない服を着ているだけで、「そんな趣味の悪い服、どこから手に入れてきたの?今すぐ脱ぎなさい!」と言われたり、「サッカーか、お母さんと過ごす時間のどっちを取るの?」と、ジュリアンが所属するクラブの練習を無理やり休まされたりする。心優しいジュリアンは、反抗することなく、嫌なことがあっても自分の中にため込んでいくタイプの少年だった。言葉には出さないが、夕食を目の前にしてもフォークで突いているだけで、まったく口にしない。姉は、彼が夜になると泣いているのをいつも聞いているそうだ。父親は完全に無関心。「仕事が忙しい」の一点張りで、家族とまともに向き合おうとしていない。

ジュリアンにはアリスという好きな女の子がいた。彼女と会う予定の日には、もともとつるつるな顔を入念にシェービングして、気合十分だった。実際にアリスも、ジュリアンの頬を撫でながら喜んでくれていた。しかし、母親は違った。家に帰ると、母親がそばに来てジュリアンの頬に手を当て、気に入らないと言われるのだった。自分の息子に好きな女の子がいることが気に食わないのだった。アリスからジュリアンのもとへ届いた手紙を見つけると、グチャグチャにして捨ててしまうのだった。後になって、ごみ箱のなかで破り捨てられている自分あての手紙を発見したジュリアンは、母親に機嫌を直してもらおうと、アリスにあげるはずのチョコレートを、母親にプレゼントするのだった。しかしここでも逆効果。気に入ってもらえるどころか、また大声で叱られるのだった。

次に、これは少しあくどい演出だなと思ったが、ジュリアンの不憫な体験をもう一つ。家にいなさいという言いつけを破り、思い切って家出してきてパーティーに向かう場面がある。自転車を漕ぐジュリアンはいつになく楽しそうだった。会場でアリスと落ち合って、静かな部屋で良い感じに、アリスがジュリアンの上着のボタンをはずしていくシーンがある。(画像7)観ているこっちもドキドキだった。しかし、ボタンをはずし終わりロマンチックが最高潮に達したところで、友達があわてて入ってきて、「ジュリアン!お母さんが探してるよ!」である。その後のアリスとのことはあきらめるしかなく、必死で自転車を漕いで家に戻るジュリアン。道路で家族が運転する車とすれ違い、顔を真っ赤にした母親が下りてきて、道の真ん中でジュリアンを殴る。(画像8)

そして、ジュリアンが一番可哀そうだと思った場面。それはお風呂上がりの時である。タオルを巻いて出てきて、自分の部屋で着替えようとしていたのだが、そこにいきなり母親が入ってくる。驚いたジュリアンは、手で下半身を隠すのだが、「なぜ隠す必要があるの?手をどけなさい!」と命令される。母親に思いっきり見られている中で、しぶしぶ言うとおりにさせられるのだった。母親に裸を見られるなんて、思春期の男の子にとっては死にたいぐらい恥ずかしいことなのに。(画像3)

終盤に向かうにつれて、母親によるジュリアンへの暴力はエスカレートしていく。ジュリアンはいつも、家にいるときはちゃんとした服装をしているのだが、学校で友達といるときには、シャツをズボンから出して、髪をぼさぼさにして過ごしている。学校が終わり家に帰る途中で、また髪を整えてしゃきっとした格好に戻していた。ところがあるとき、母親が学校にやってきて、不良のような恰好をしているジュリアンは見つかってしまう。その姿を見るや否や、友達の前でジュリアンに平手打ちである。

さすがのジュリアンももう耐えきれなかった。あるときの放課後のジュリアンはいつもと違った。普段だったら、家に入る前に髪を正すのだが、ぼさぼさの髪のまま、あと友達から借りた拳銃も持って、母親に挑んでいく。(画像16)

2014/05/18

ブレイブクエスト/勇者の剣 (1989)

Sigurd Drakedreper (1989) ★★★

部屋にある未見のVHSの中からピックアップして鑑賞。邦題は「ブレイブクエスト 勇者の剣」となっていて、allcinemaで調べてみると、「BRAVEQUEST」が原題のようにあったが、実は原題は「Sigurd Drakedreper」で、英題は「The Littlest Viking」である。完全に埋もれてしまっている作品だからか不確かな情報しか載っていない。邦題も内容無視で都合よくつけたようなものである。

原題からも分かる通りバイキングの話である。バイキングとは、“8世紀から11世紀にかけて、スカンジナビア半島やデンマークを根拠地として、海上からヨーロッパ各地を侵攻した北方ゲルマン族の通称。”とのことなので、この映画は一応歴史ものに分類されるはずなのだが、ビデオのパッケージに書かれている説明を見てみると笑ってしまう。「剣と魔法のファンタジー」とか書かれているが魔法なんて誰も使っていないし、伝説のドラゴンを倒せ!というのもなんとなく芯をとらえていない感じである。

そんなことはどうでもいいとして、映画自体は楽しめた。シガード(Kristian Tonby)の父は族長であり、兄たちも含めて立派な戦士であったが、あるとき敵対する部族が攻めてきて、殺されてしまう。まだ子供であるシガードが一族を受け継ぐことになり、周りからは復讐を期待されるが、心優しいシガードは人を殺すことなんて出来なかった。

シガードは着ているものは立派なのだが、当の本人はとても情けない少年だった。剣の訓練の時も、へっぴり腰の構えで、ちょっと剣を振り上げられると腰を抜かしてしまう。魚を取ろうとしても、川に落っこちて流されてしまったりする。そんなピンチの時にいつも彼を助けてくれるのは、捕虜や奴隷といった虐げられている人々だった。そんなこともあって、シガードは復讐をするのではなく、みんなで仲良くやっていこうということで、父から受け継いだ伝説の剣を谷底に投げ捨てる。敵の部族も含めて、次の世代を担う子供たちの方が平和的で話が分かるのだった。久しぶりの正統派王子様映画だった。


2014/05/17

向かい風 (2011)

Des vents contraires (2011) ★★★

クレマンを演じたHugo Fernandes君がイケメンだったので鑑賞。クレマンもかっこいいし、父親のポールも凄くダンディ。役者陣から街の景色、部屋の中の家具家電といった一つ一つのアイテムがすべてスタイリィッシュ。洗練されていることが伝わってくる画づくり。

ポールとサラは夫婦。あるとき2人は喧嘩をし、その後突然サラは失踪してしまう。残された夫のポール、息子と娘のクレマン、マノンの3人は、都会を離れてポールの地元に引っ越しすることになる。鳴かず飛ばずの作家であるポールは、そこで自動車教習所の教官をやりながら、新しい土地や学校になじめないでいる子供たちの面倒を見る。

次から次へと悪いことが起こる。うじうじした人たちばかりで暗かったが、そんな中で子供たちとサッカーや壁のペンキ塗りをする場面では、楽しそうでほっこりする。刷毛を使ってお互いをペンキで汚すだけではおさまらず、ポールはバケツからペンキをがっぽりそのまま手で取って、クレマンの髪の毛にべったりの塗りつける。そこまでしなくても。(画像10)

劇中で「ブラックホールのそのあとは、すべてがクリアになる」という哲学的な言葉が出てくるが、話の内容もそれに沿っていて、最後には家族は何とか立ち直ったようだった。ちなみに、イケメンのクレマン君の次回作、「ママはレスリング・クイーン」が2014年7月19日に日本で公開されるとのこと。(ヒューマントラストシネマ有楽町 ほか)


2014/05/13

Måske ku' vi (1977)

Måske ku' vi (1977) ★★★★

脚本があの「Du er ikke alene」の監督、ラッセ・ニールセンと言うことで鑑賞。ただ今回は脚本のみで監督ではないからか、ホモ描写はなし。少年少女の現実逃避的なラブストーリーである。ちなみにラッセ・ニールセンはインタビューで、「好きなComing of age film(思春期映画)は?」と聞かれたときに、トリュフォーの「野性の少年」「大人は判ってくれない」や、「顔のない天使」「Streetwise」「春のめざめ」「I am Gabriel」、また日本映画の「誰も知らない」などを挙げている。

「Du er ikke alene」の主役の少年はキムと言ったが、今回の主役の少年もキムである。他のキャストの中にもなじみのある顔がいくつかあった。長髪で女の子みたいな顔をした男子が多い。そんな中でヒロインのマリアンは、女の子ではあるがきりっとした顔つきをしているので、性別がごちゃごちゃになっている感がある(?)

遊びたいのに、宿題があったり親がうるさかったりして、とにかく自由になりたい!という感じの思春期ものである。キム(Karl Wagner)と友達のオウルはつるんで街で騒ぎ、人に迷惑をかけている。映画館でブルース・リーのポスターを見れば、キャーキャー言いながらクンフーごっこである。パーティーに参加すれば、お酒を飲んで酔っ払い女の子に体を触られたりキスされたり。翌日に学校の更衣室で「昨日は指でやったぜ」とか男同士でニヤニヤ話している。

後半からの展開が面白くて、まさに自分にとっての理想的な生活だった。現実ではありえないかもしれないが、夢見心地でふわふわして観られる。キムがたまたま銀行に訪れたときに、銀行強盗が入ってきて、キムとそこにいた女の子のマリアンが車に乗せられて誘拐されるのである。そして山奥に連れて行かれるのだが、たどり着いた場所が、銀行強盗してきた後に向かうところとは考えられない、夏休みに過ごしに行く別荘のようなところなのだ。キムとマリアンは捕まってはいるのだが、犯人たちは好意的で、ろうそくが立てられている良い感じのテーブルで一緒にディナーである。そのあとはお酒を飲みながら、盗んできた本物の紙幣を使ってボードゲームをし、さらにキムとマリアンは、同じ部屋で寝ているので、お互いくっついていくというパターンである。

それでも2人は犯人たちの隙をついて逃げ出してくる。どこに向かっているのかも分からないでとにかく走っていると、これまたおしゃれな別荘を見つけるのだった。そこにはシャワーもついていて、食べ物もワインも置いてあり、2人でしばらくそこで過ごすことにする。2人だけの空間、裸になってロマンチックにいちゃいちゃし始める。別の日になると、別荘の持ち主の息子とその友達たちが現れ、5人の少年少女は学校にも行かず、森でキノコを採ったり、ギターを弾いたり、クンフーごっこをしたりして自由気ままな生活を送る。街に買い出しに行く時も、誘拐された子供だということがばれて、連れ戻されないように、フードを深くかぶっている。雑貨屋で誘拐された自分たちが一面に載っている新聞を見つけて喜んでいる。

パトカーがキムたちの過ごしている山まで捜索に来たときには、ようやく助けられるというのに、彼らにとっては逆に拘束されに行くようなものだった。街に戻ってきて母親がうれしそうにキムに抱きつくが、彼は無表情のまま。ラストでは、マリアンと引き裂かれ、「大人は判ってくれない」的な、やるせない顔が映ったところでカメラが止まり、アップになっていくという終わり方だった。




ジョー (2013) <未>

Joe (2013) ★★★★

MUD -マッド-」に出演したTye Sheridan君の次の映画出演作。ニコラス・ケイジ扮するジョーと、少年ギャリー(Tye Sheridan)の友情もの。めちゃくちゃな家庭で苦しんでいる少年の姿や、粗暴な男と少年の絆、あるところで毒蛇が現れたりするところなど、前作の「MUD -マッド-」と似ている部分が多い。また、「グラン・トリノ」を参考にしているのか、咳き込んでいて末期を予感させる一人の男が、少年のために自らを犠牲にし、その後少年がその男の車と連れていた犬を引き継ぐあたりなどは同じ。

辛い環境でもひたむきに頑張っている少年を演じさせるならTye Sheridan君、というように彼はキャラクターを確立させたように思う。そんなに顔が綺麗なタイプではないが、まだまだ若いながらいろんな苦楽を経験してきたような表情、笑顔は魅力的だと思う。劇中でギャリーは女の落とし方なるものをジョーに教えられるが、その内容はというと、さわやかな笑顔を振りまけ、とかなんかではなく、辛そうに、でも頑張って笑うような表情を作れ、というものである。「この笑顔で多くの女と寝てきた」と誇らしげであったが、これはニコラス・ケイジのあの独特なスマイルを皮肉ったギャグだったら面白い。

舞台となっているのは、人間関係がドロドロしていて、嫌な雰囲気で満ちている田舎町である。いま思いつく限りでは、今公開されているヒュー・ジャックマンの「プリズナーズ」、これから日本でも公開されるかもしれないシルベスタ・スタローン脚本の「Homefront」のあの感じ。ギャリーの父親は、禿げあがっていて白髪の長髪。浮浪者のような見てくれで、父親と言うよりはじいさん。どうしようもない奴で、息子が働いてもらってきた金を殴って奪い取るような父親である。そんな状況でも、家族は一番大切にしなければならないものだと教えられてきて、自分でもそう信じているギャリーは、ジョーのところで仕事を見つけ、「親父も一緒に働けるかい」と頼み、飲んだくれの父親をどうにか更生させようと健気である。ジョーはそんなギャリー様子を見て、これでは駄目だと彼のことを気にかけるようになる。ギャリーにとって頼りになる存在はジョーだけだったが、彼は前科を持っていて警察に盾突き、他人とけんかになるとぶちのめし、その報復で左肩をライフルで撃ち抜かれたり、生傷の絶えない男であった。

ジョーたちのやっている仕事が不思議なものだった。森の中で、謎の液体を放出する斧のようなものを振りおろし、樹をぐちゃぐちゃやっているのである。まるで樹の傷ついた部分から血でも噴き出しているかのようなグロテスクな描写だった。実はその液体は何かしらの毒で、それを浸透させることで必要のない樹を枯らしているのだった。