2014/07/15

リアリティのダンス (2013)

La danza de la realidad (2013) ★★★★★

ホドロフスキー監督23年ぶりの新作。こんなにスパンが空いたのは単純にお金が溜まらなかったからだそう。そして現在、次回作の「フアン・ソロ」を製作中。

主役のブロンティス・ホドロフスキーは、1970年制作「エル・トポ」で、裸で馬にまたがっていたあの男の子。今回も全裸になっている。父親の映画に出るたびに、チ○コを披露させられている。完成することなく終わった「ホドロフスキーのDUNE」の時は、武道家の先生のもとで数年間訓練を受けさせられた挙句、その成果を披露する場が突然失われてしまった。映画のためなら片腕を失ってもいいという父親に振り回されている。

ホドロフスキー自身の幼少期も、権威的な父親の言うことは絶対で、逆らうことが出来なかったことが映画を観ているとわかる。「リアリティのダンス」は、ホドロフスキー自身の辛い少年時代を、慰めの意味も込めて作られた。劇中でホドロフスキーは、長髪の金髪の少年として登場してくる。父はそんな彼のことが気に入らず、オカマだとか言って、幼児虐待ではないかというぐらいに厳しく接する。バコバコと殴り、「もっと叩いてください!」と言わせて、歯が折れてしまうまでやめない。そのあと彼を歯医者に連れて行って治療をするのだが、父親は医者に「麻酔なしで治療してください(あとでフランス産のワインを贈るから)」と言って、医者と父親とで、ホドロフスキー少年をいじめる。印象的だったのは、足の裏くすぐり拷問である。「男なら絶対笑うな!」と、ホドロフスキーを裸にし、鳥の羽で足とか脇とか鼻をこちょこちょするのである。何の意味があったのか。

前半はほとんど、苦しむホドロフスキー少年を観ていた感がある。斬新で面白いと思った場面は、少年たちによる集団オナニーの場面。学校の授業か何かで海岸に来ていた生徒たちの中の、ある男の子が「シコシコしようぜ」と周りの子たちを誘い、人目のつかないところに移動する。ホドロフスキー少年もついていく。それで10人ぐらいでシコシコし始めるのだが、直接的には映っていなかった。そのかわり一人一人が、チ○コの形を再現した木の棒を持って、それをこすり始めるのである。みんなシンプルな形をした木の棒なのだが、ホドロフスキーの棒だけ、先の方が膨らんでいた。それを見た周りの少年たちは「キノコだ!」と大笑いし、深く傷ついたホドロフスキーは海に身投げ自殺をしようとする。実際に彼は割礼をされていたので、先が膨らんだ木の棒だったというわけだった。

少年期のホドロフスキーを演じたのは、イェレミアス・ハースコヴィッツ(Jeremias Herskovits)。まつ毛が長くて唇が赤くて、金色のかつらを被り、鮮やかな水色の服を着た彼は、人形のように可愛かった。ところで、ホドロフスキー監督の過去の作品は、汚い画質のものしか観たことがなく、その映像の粗さと、いわゆるカルトと呼ばれるぶっとんだ内容とが良い感じにマッチしていて、そこが気に入っていたということもあった。今回綺麗な映像になってくるとどうだろうかと思っていたが、そんなふうに人形のように綺麗な男の子を観られたのでとても満足。カラフルな街並み、真新しい派手やかな衣装、それらが鮮明な映像で観られることで、現実離れした不思議な世界観を生み出していて良かったと思う。

笑える場面も多い。ホドロフスキーの母であるサラは、セリフをすべて高い声で歌うように話す。実際にホドロフスキーの母親はオペラ歌手だったらしい。旦那とセックスをしているときの喘ぎ声も、高い声で、合唱する前の音程合わせのような感じで、ハァハァハァー♪と繰り返し言うので、笑わずにはいられなかった。サラは何度も服を脱ぎ、巨大な肉体とおっぱいを惜しみなくさらしている。

そして、最も衝撃的な場面であろう、サラの放尿のシーン。ペストに侵されて、肌もただれた状態になっている旦那に、おしっこをかけるのである。なんと次の瞬間には、旦那の体は元通りに回復しているのだ。購入したパンフレットに、その場面についてホドロフスキーが言及している。多くの宗教の中で尿には人を癒す力があり、神に祈りをささげ、川のように放尿することは、彼女の一番大きな愛なのだとか。

とにかく、いくら語っても意味のないぐらい映像から受けるインパクトが大きい。サラやハイメの股間にはぼかしが入っているのだが、なぜか最後だけハイメの股間にぼかしが入っていなかった。ホドロフスキーの身内が3人出演していて、あくまで自分のために、自分の人生を見つめなおして作られたような映画。最後まで見終わった時にはなぜだが癒された。









パンフレットより。 


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